平和を願い、これを追い求めよ
2022年7月31日 東京四教会合同主日礼拝
イザヤ11:1~10、ペトロ一 3:8~12
唐澤 健太牧師(国立のぞみ教会)
「平和を願って、これを追い求めよ」(11節)。これが今年の東京四教会合同主日礼拝に与えられた御言葉だ。2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まり、戦禍はいまも続いている。平和を願い、追い求めることは私たちの危急の課題だ。
「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」。この言葉は詩編34編から引用である。つまり、平和を願い、平和を追い求めることは旧約と新約を貫いて神の民に命じられることなのだ。聖書を読む私たちにとって、平和を願い、追い求めることは社会問題とか政治問題であると同時に「信仰の問題」である。
「平和」とはなんだろうか? この手紙が書かれたのはローマ帝国が圧倒的な軍事力と経済力によって地中海世界を支配していた「ローマの平和」と呼ばれる時代である。しかし、「ローマの平和」と評される時代をローマの政治家であるタキトゥスという人は、「ローマ人は、廃墟をつくり、そこを平和と呼ぶ」と非常に批判的に評価している。タキトゥスの批判は「ローマの平和」の本質をつく言葉だと思う。
「平和」とはなんだろうか? 「平和」とはシャロームである。シャロームとは小さな者も誰も傷ついていない世界だ。私は聖書のシャロームの世界を想像するとき、イザヤ書11章に記される「平和のビジョン」をいつも思い浮かべる。
「狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう」(イザヤ11:6-7)。「弱肉強食」ではない世界がここに神の御心として示されている。一読して気がつくように「共に」という言葉が繰り返し語られる。この狼も小羊も「共に生きる」世界を実現させる歩みを聖書では「正義」というのだ。
私たちはこのイザヤの御言葉をクリスマスに繰り返し読む。ここに示された「平和の王」を私たちキリスト教会はあのイエス・キリストであると信じるからだ。イエス様こそ義であり、イエス様こそ平和の主である。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊しました」(エフェソ2:14)。
「平和を願って、これを追い求めよ」。私たちの願い、求める平和は、キリストによって示された平和だ。廃墟になったところを平和と呼ぶ平和では決してない。ペトロの手紙は、「平和」を作り出す、共に生きる具体的な行動として、「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(8−9節)と勧めている。
私たち4つの教会は小さな群れだ。ローマ帝国のような巨大な力の前に何の力も持たない者たちだ。しかし、「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに耳を傾けられる」(12節)と御言葉は私たちに告げている。私たちがどんなに小さな群れであっても、そのものたちの祈りに主は耳を傾けてくださる。主が目を注ぎ、耳を傾けてくださるとはなんと心強いことか! だから神の子らよ、健やかに「平和を願って、これを追い求めよ」。