カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 憤りの中を通り抜けて恵みへ

    2022年12月4日
    イザヤ書55:1~11、ルカによる福音書14:14~30
    関 伸子牧師

     主イエスの宣教はまずガリラヤ湖に沿ったカフェルナウム、その他の町々から始められましたが、やがて故郷の町ナザレに至り、安息日に会堂に入って、聖書を読もうとしてお立ちになりました。会堂司はイエスに預言者イザヤの書を渡し、イエスは次の箇所を開いて、朗読しました。

     「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために 主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは 捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 打ちひしがれている人を自由にし 主の恵みの年を告げるためである」(4:18~19)。イエスが席に着かれると会堂にいる者たちはみなイエスを褒め、その口から出る恵みの言葉に驚いて語り始めました。

    神は語った言葉は必ず現実にする。神が解放すると言えば解放が実現し、神が赦すと言えば赦しが起こる。ここに本当の希望があります。だから勇気を出しなさい、と預言者イザヤは語ります。先ほどお読みしたイザヤ書第55章でイザヤは、自然現象を例にあげています。「雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく 必ず地を潤し、ものを生えさせ、目を出させ種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える」(55:10)。

     8節から9節では、神の「思い」や「道」は人間のそれとは天と地ほどの差がある、と説いています。イザヤは、神はペルシャの王キュロスを用いて、捕囚民をエルサレムへと解放すると告げていましたが、その神の「思い」と「道」は、確かに人間の予想を超えています。しかし、神は地上に無関心なのではありません。天から下る雨と雪の働きは誰もが目で確認できます。それは確かに天に「むなしく戻る」ことはありません。一方、天から下る神の言葉は肉の目には定かではありませんが、天から下る雨や雪のように、神のもとに「むなしく戻らず、神の望みを成し遂げ、使命を必ず果たし」ます。このように神の言葉は必ず出来事となるのです。

     主イエスはナザレの会堂で説教をなさったとき、聖書を解き明かして、「『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と語り始められた」(ルカ4:21)と言っておられます。主は霊に満たされていたのだから、当然力強く、喜びに満ち、感銘深い仕方で朗読されたに違いありません。それをよく示しているのが、囚人に解放を、盲人に開眼を、人々のヨベルの年を「告げる」と訳されている、「宣べ伝える」という言葉です。この言葉は、元々、大王からの宣言を伝令が大王に代わって布告することを意図します。王のお告げを告げる気持ちで、今日、この村に、喜びをつくりだしたのだと言われたにちがいないのです。やはり、聖書は今も神の民の礼拝の中で生きた力をあらわします。

     ナザレの人々は確かにイエスを「褒め」(22節)、その言葉に驚いたのですが、その賞賛には不純な要素が含まれています。それを暴露したのが、「この人はヨセフの子ではないか」と言う彼らの発言です。つまり故郷の人々は、イエスの低い姿につまずいたのです。イエス・キリストにはいつもこの低さと高さがひとつになっておられます。ちょうどわたしたちが身をかがめて低くならなくては地面に落ちている小さなものが見えないように、わたしたち自身が変わって、低くならなければ、イエス・キリストの本当のお姿は見えません。

    そこで主イエスは言われました。「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」。そうです。昔、預言者エリヤの時代、飢饉があった時、ただひとりシドンという地の一人のやもめに、エリヤが遣わされ、また預言者エリシャの頃、ただシリアのナアマンという状軍の重い皮膚病の人がいやされただけでした。つまりどんなに偉い預言者がいても、ただ信じる者のみが救われるのです。けれどもこれを聞くと、会堂にいるすべての人びとが、怒りだし、「イエスを町の外に追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(29節)。真理を聞く耳がなければ、ただイエス・キリストの姿に驚くばかりで、かえってその低い姿につまずくのです。

     「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(30節)。ある人はこの描写を漫画のスーパーマン的な行動だと書いていました。行った」という表現は「行き続けた」(直訳)という意味であることを考慮すると、イエスを殺そうとした人々が多くいて、イエスはその多くの人々の中を進み続けたことが示唆されます。こうして、後にイエスはさらにエルサレムへ向かって進み続けて行かれます。最終的に、イエスは再び捕らえられて十字架刑を受けますが、さらのその死から解放されて復活し、罪と死に捕らえられているすべての人々を永遠の命へと解放します。

    「聖書の言葉は、今日、実現した」(21節)。神の国の現臨は、歴史上で忘れられた人々にイエスが向ける関心によって、今もうすでに始まっています。今や、キリストによる解放の時です。主イエスが来られることにより神の国は今ここにあるのです。主イエスに従う私たちは、預言者、教師、責任あるもの(コリ一12:27~30)として、私たちの役目を誠実に果たしていきたいと思います。祈ります。