カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 恵みをかみしめる沈黙のとき

    2022年12月11日
    ゼファニア3:14~18、ルカ1:5~25
    関 伸子牧師

     先ほど聖書朗読されたゼファニア書とルカ福音書に共通していることは、「喜べ」ということです。預言者ゼファニアは「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ」と言って、エルサレムの復興を語り、喜び叫べと民を励まします。ルカによる福音書第1章は、ザカリアという一人の年老いた祭司に天使が喜びの知らせを告げるという場面です。

     しかし、この物語は告げられた喜びの知らせを確かに聞いたのだけれども、信じることができずに、口が利けなくされてしまった人の物語です。ルカはすでに「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人ともすでに年を取っていた」(1:7)と言ったばかりです。人間の可能性からすればもはや出産は不可能でした。聖書では不妊の女性が子を授かるという話が、しばしば出てきます。アブラハムの妻サラはその典型です。ほかにもイサクの妻リベカ、ヤコブの妻ラケル、サムソンの母や、サムエルの母ハンナの物語もあります。イザヤ書ではイスラエルも不妊の女にたとえられたことがありました(イザヤ54:1)。 

     ザカリアはある日、祭司としてエルサレムの神殿で香をたく務めを担うことになります。くじ引きで当たったのですが、これは祭司にとっては一生に一度あるかないかのことでした。ザカリアが香をたいたのは、「主の聖所」であり、そこで「主の天使」と出会う。「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖に襲われた」(12節)。「あなたがたに男の子が生まれる」というお告げを聞いてザカリアは答えます。「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」(18節)。これは明らかな拒否です。ザカリアは喜びの知らせを避けてしまいます。それを聞くのですが、信じて受け入れることができないのです。

     喜ばしい知らせを拒絶してしまったのはザカリアだけではありません。私たちはあの信仰の父、アブラハムを思い出すことができます。アブラハムとサラはやはり、年老いていることを理由に、その子イサクの誕生を告げられたときにそれを拒絶します。「そんなことが果たしてろうか」とあざ笑ってしまいます(創世記18:1以下)。

     ザカリアはまさに神の前にあって祭司の務めを果たしつつも、実は神の方を向くことができないままでした。神の救いを受け入れる準備ができていなかったのです。言い換えると、悔い改めがザカリアに求められている。悔い改め、それは方向を転換することです。それがなければ神の救いを受けることはできないからです。この先を読むと、信じないザカリアに、ガブリエルは告げます。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」(20節)。こうしてザカリアは沈黙の時を与えられました。再び、ザカリアの口が開かれるのは、ヨハネ誕生の後です。

     この沈黙は何を意味するのでしょうか。神の裁きでしょうか。ルカによる福音書において、ザカリアの沈黙は、神の子イエスの受胎の出来事の前に位置づけられています。それは、神が人間になられたという出来事が私たちにとって何を意味するのかということを指し示しています。それはまさに驚くべきことであり、言葉を失うことなのです。言い換えると、それはまったくの神の主権的な御業であり、私たち人間はその前に黙するほかないのです。

     高座教会で職員研修を受けた時のことを思い出します。鎌倉の「黙想の家」で一泊二日でしたけれども、研修の時間以外はみんなと共に行動していても、それが、食事のときであっても「沈黙の時」を過ごしました。私たちプロテスタント教会にこういう習慣はありませんが、私たちも沈黙の時を礼拝の中で定めています。沈黙して、ただ神の言葉に聴く。そのようにして、ただ神と向き合うことに導かれます。

     今日、私たちの周りには実に多くの言葉が満ちています。自分の言葉、友の言葉、家族や学校、社会の言葉など、実にさまざまな言葉のなかで私たちは生きています。それらの言葉は私たちを励ますこともありますが、逆に傷つけることもあります。私たちをほんとうの意味で助け、立たせ、救うのは、ただ神の言葉であることを覚え、福音を聞くために沈黙が必要なことを今日の聖書は教えてくれます。

    不妊のモチーフは神の創造的な導きを表すためのものでした。エリサベトはこの世に生を受けて年老いてなおも行き続けているその長い日々に、神が目を留め続けていてくださったことに感謝しました。神は人間ができないことをしてくださる方です。人間には絶望的と思えるときにも、神は全能の神として働いてくださり、救いの御計画を成就させてくださる。ここに神の民の希望があります。ザカリアとエリサベトの息子ヨハネは人々を神に立ち返らせる働きをする先駆者でした。実際、ヨハネが行ったことは、主イエスに先立って一大悔改め覚醒運動を起こしたことでした。メシアの登場に備えて、神は着々と準備を進めてくださっています。神の救いの歴史がいまも流れ、その業がなされる。その喜びを思い巡らしながら、私たちはこの時期、日々の生活の中で、神の恵みを思い巡らす沈黙の時を大切にしていきたいと思います。お祈りします。