カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 広がりゆく神の言葉

    2023年1月22日
    民数記9:15~23、ルカによる福音書14:16~30
    関 伸子牧師

     「イエスが霊の力に満ちてガリラヤに帰られると、その噂が周り一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から称賛を受けられた」(ルカ4:14)。それまで主イエスは霊によって荒れ野に導かれ、40日間、悪魔から試みを受けられ、静かに待つことを学びました。しかし、今ここで立ち上がります。

     主イエスの時代を調べると、当時のユダヤ人の中には、異邦人に対する激しい憎悪が渦巻いていたと言われます。それは異教徒ローマ人の支配に甘んじている今の体験、過去の迫害や圧政の苦しみ、偶像礼拝への激しい嫌悪などから来るものでした。そのため民族主義が台頭してきて、テロや暴動も頻発していたと歴史書に記されています。人々は異教徒に対する神の報復を切に望んでいました。そういう働きが70年のユダヤ戦争へと向かっていき、エルサレムはローマ軍に滅ぼされてしまいます。そのような時代の流れの中で主イエスは宣教を始め、抑圧された人々が解放され、貧しい人々に福音がもたらされることの実現がイエスにおいてなされます。

     イエスがナザレでどういう説教をされたか、ルカはその詳細を描いていませんけれども、イザヤ書第61章の引用の仕方にひとつのはっきりした特徴があらわれています。それは元のイザヤ書の本文と比較すればすぐにわかります。そこでは「主の恵みの年」を告げることだけで終わっていません。「主の恵みの年と 私たちの神の報復の日とを告げ すべての嘆く人を慰めるために」(61:2)と続いていたのです。

     この報復こそユダヤ人が最も望んでいることだったのであり、この報復という要素を取り除いたところにナザレの人々は怒りを覚えたと、ルカは暗にほのめかしています。確かにイエスは生粋のユダヤの血筋から出たお方でした。また、その宣教活動はイスラエルを中心に行われました。しかし、イエスは狭いユダヤ民族の枠にとらわれるメシアではなく、エルサレムから始まって地の果てに至るまで、神の国をもたらすメシアなのです。そのことは、後に同じルカが書いた使徒言行録が伝えている第1章8節、「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」、この言葉のとおりです。今日の箇所も同じことを伝えています。

     ところで、今日の箇所の冒頭で、主イエスは「この聖書の言葉は、今日・・・・・・実現した」(21節)と述べます。「実現した」と訳された語は、「満たされる」の意味ですが、この語と同根の語が28節に登場します。28節の「憤慨した」を直訳すれば「怒りに満たされた」となります。イエスの恵み深い言葉に驚いたはずの人々が、イエスを崖から突き落とそうとするほどの怒りに満たされてしまいました。このような変化がどうして起こるのか、それが今日の箇所の主題だと言えます。

     故郷の人々は、イエスの口から出る恵みの言葉に「驚き」ましたが、その称賛には不純な要素が含まれています。それを暴露したのが、「この人はヨセフの子ではないか」と言う彼らの発言です。この発言は驚きの表現ですが、イエスの本当の姿を捉えそこねています。

     彼らはイエスを通して働く神に目を向けずに、イエスと自分たちの地縁に注目します。彼らは、イエスを取り込み、自分たちが特権を持っているかのような錯覚に陥ります。医者はまず身内をいやすべきだ。だとするなら、ナザレがカフェルナウム以上に奇跡を受けられて当たり前だ。それに対してイエスは、それを耳にした今日、聖書の言葉が実現したことになるみ言葉を語ります(21節)。

     そして、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と宣言します。 
    この言葉は続く節において説明されます。大預言者エリヤは、ユダヤ民族に属する誰かにではなく、異教の国のやまものもとに遣わされました(25~26節)。このように神のメッセージは周縁から届くのです。同じことは、エリヤの弟子、エリシャにも起こります。エリシャも、ユダヤ人ではなく、重い皮膚病を患った異教徒―イエスの聴衆は異教徒を軽蔑しています―を癒します(27節)。イエスの同国人は、イエスのメッセージの意味に気づき、憤り、イエスを待ちから放り出し、崖から突き落とそうとします(28~29節)。

     怒りに「満たされた」彼らは、イエスを自分たちの共同体とは異質なものとして排除しようとしますが、イエスは「人々の間を通り抜けて」立ち去ります。神の救いを宣言するために、身内に留まらずに、外に出ていくのが預言者の使命です。神はすべての人の救いを望んでいるからです。主イエスは信じる者には柔和でしたが、敵対者に対しては強く敵対することによって福音の純粋を死守されました。人々の間をすりぬけて行かれたイエスは、「あなたは信じるか。本当に私を信じるひとりになるか」と問われています。お祈りします。