カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • あなたの言葉に生かされる

    2023年1月15日
    出エジプト記18:13~27、ルカによる福音書5:1~11
    関 伸子牧師

     「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来たとき、主イエスはゲネサレト湖のほとりに立っておられた」(ルカ5:1)。福音書では、ガリラヤの湖、ゲネサレト湖畔でさまざまなことが起こります。「押し寄せて来た」、とあります。神の言葉を聞いて生かされるために、そのいのちの言葉によって生ける神との交わりを持つために、あるいは、何の目的ももたないこの世で本当の喜びと希望を見いだすために、そこに多くの人が集まったのでしょう。イエスは群衆の熱意に答えるために、二そうの舟が岸にあるのをご覧になり、舟の傍らで網を洗っていた漁師シモンに頼んで舟に乗り、少し漕ぎ出した所から岸にいる群衆に教えを述べ始めます。

     群衆に話し終えた主イエスはシモンに「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」と言われました。直訳すると、「あなたがたはあなたがたの網を降ろしなさい」と命じています。あなたがた、と語りかけているので舟にはシモンの他にも何人かの漁師が乗っていたはずです。彼らは夜通し漁をしたのに何もとれませんでした。しかも、すでに陽は高く昇っています。魚がかかるはずがないことを熟練した漁師は知っています。イエスの言葉をいぶかしく思い、白々しい空気が彼らの間に流れてもおかしくはありません。

     私たちはこのイエスの言葉をどう受け止めるかを問われています。「沖へ漕ぎ出し、網を降ろしなさい」。ペトロとしては、「いいえ、きょうはもうやめておきます」と言うこともできたはずです。「私は漁師です。毎日毎日、魚をとって暮らしてます。そう言われても駄目なものはダメなんです」と言えたはずです。これはまさにそのとおりで、漁師としての経験や勘からすれば、誰でもそう言いたかったと思います。しかし、ペトロはここでは違う反応を示しています。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言った。人間の経験や知識では無駄に見えても、イエスのお言葉なのでやってみましょうという態度です。

     ルカの書き方は興味深い。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした」というところでは、主語は「私たち」です。漁師仲間の共通体験として、きょうは駄目なのであきらめましたと言っている。しかし、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というところの主語は、訳されていませんが、「私」です。「あなたの言葉に基づいて、私は網を降ろしてみましょう」と言っています。他のみんながどう考えようと、私はお言葉を信じてやってみます。一人ひとりがこの思いになったとき、伝道は息を吹き返します。伝道とは、主の約束に応えて行う信仰の業なのです。時がよくても悪くても、止めたりあきらめたりしてはならないのです。そして、続けて行くならば、そこには大きな成果が約束されています。事実、「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(5:6)と言われています。この働きを担うために最初の弟子たちが集められました。

     イエスはシモンに、「恐れることはない」と語りかけ、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と宣言します。これは直訳すると「人間を捕らえて生かす者」となり、新しい生き方への招きです。こうして、漁師たちは岸辺に「すべてを捨てて」イエスに従います。生業のための道具を捨てた彼らは、もはや自分の利益のためではなく、御言葉への信頼のうちに生き始めます。

     では、いったいどうすれば、その変革に、また神に出会うことができるのでしょう。その鍵は「すべてを捨ててイエスに従った」という言葉にあります。主イエス・キリストの約束の言葉を行うことがもっとも大切なのです。そのとおりにしてみたときに、はじめて聖書の言葉の真偽がわかります。私たちは、それはほんとうだろうか、うそではないかとさまよううちに一生を過ごしてしまいがちです。そこには驚くような事件は起こりません。しかし、それを約束であると信じて従うなら、そこで、私たちはいまも生きておられる神にふれるのです。その神のふれるところから信仰生活が始まります。

     福音は人々の日常の生活で語られます。生ける神は、御自身のほうから近づいてこられます。その時、私たちは変えられます。誰も不可能なことを、神は可能にされる。「人を捕る漁師」にするのです! 生きた人間をキリストのもとに連れてくるということです。私たちはこの神の言葉を聞いて、「しかし、お言葉ですから」というやりかたで、もう一度、もう一度と網を投げ、その言葉のとおりに、神の言葉にすべてをまかせる。それが信仰です。主日ごとにイエスを教会で拝するだけでなく、日々、生活の全領域で主を拝するものとなる。ただ信じよう。今洗っていた網を、もう一度「お言葉ですから」、投げてみよう。「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(11節)。祈ります。