カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の言葉を聞いて育とう

    2023年2月5日
    箴言3:1~8、ルカによる福音書8:4~15
    関伸子牧師

     イエスさまは日常生活の身近な事実、あるいは観察を素材として多くのたとえ話を語られました。数多くのたとえ話の中でも、最も代表的なものは「種蒔きのたとえ」です。ルカは神の種の蒔かれる土壌に四種類あることを告げます。土壌の一つ目は、道端。パレスチナの普通の土地は細長く分割されていました。分割された一つずつの土地の間は小道になっていて、そこは自由に通ことができました。種がこの小道の上に落ちると、そこは道路と同じくらいかたかったので、育つ見込みはまずなかった。これは踏み固められた頑固な心であって、聞いて言葉を全然受け付けない者です。

     二つめは岩地。これは、石灰岩の岩だなの上に土がうっすらのっているような地表をいいます。そこには水分も養分もないので、岩や岩地の上で種が芽を出したとしても、その結末は枯れ果てる。すなわち浅薄な心で教えを聞く者は、しばらくの間は信じてよろこんでいるけれど、やがて試練が来るときは信仰から退く者です。

     三つ目は、茨の茂った土地。それは、最初はきれいに見える土地でした。種は芽を出したとしても、茨にふさがれてしまいます。「茨の中」にたとえられた心の状態、これは、土があるから信仰も発育しますが、同時に世の心労と財貨と快楽をも発育して信仰の発育を塞ぎ、そのため結実を見ないものです。これは神とマモン(財の神)とに兼ね仕える偶像礼拝の精神であり、罪との戦いを自分の良心に経験しない者の態度です。

     たとえというのは一つひとつの要素を細かく意味づけてしまわないで、ある一つの強調点に着眼して受けとめるのが、その本来の読み方です。つまり、道端とか空の鳥とか茨というのは、最後のすばらしい収穫を鮮明に描き出すための舞台装置であって、私たちは何よりも結末に目を向けなければならないのです。「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽が出て、百倍の実を結んだ」(ルカ8:8)というところです。

     「良い土地」とは、よく整備された畑のことです。「良い土地」に与えられた心は、聞いた御言葉を「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。そこに落ちた種は成長して百倍の結実を見るのです。「良い土地」は、土がこまかくよく砕かれており、雑草が生えず、風通しがよくて虫がつかず、水のうるおいと日の光とをよく吸収できる土地です。「良い地に落ちた」種は、

     正しく、良い心で、御言葉を聞いて、しっかり守り、忍耐して実を実らせます。この人は、信仰を自分の事柄として受け止め、最後まで、息をひきとるまで、天国に至るまで、信じ続けてゆく人です。 
                                                                                                                                                                      
     これをイエスの宣教の現実にあてはめると、どういうことになるか考えてみたいと思います。イエスの宣教は、はたして順風満帆になされたでしょうか。必ずしもそうではなかったと思われます。伝道を開始すると同時に、律法学者やファリサイ派の人々からは目を付けられ、反対と敵意がしだいに高まっていきました。また、イエスの家族でさえイエスをよく理解していない現実もありました。信じる人もいましたが、信じない人も多かったのです。だから、弟子たちの心はしだいに失望落胆の色が濃くなっていたのではないでしょうか。神の国の宣教は、徒労と失敗に終わる小さな冒険にすぎないのではないか、と。そういうとき、イエスはこのたとえで語られたのです。

     イエスの弟子たちは、イエスが種をまく人のたとえを語り終えると、それが何を指し示しているのかを尋ねました。そこでイエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても悟らないためである』」(10節)。その秘義は、弟子たちも、初めのうちは分かりません。それは、イエス・キリストの十字架と復活の秘義だからです。

     また、神の言葉をまく主イエスは、良い土の中だけでなく、道端にも、岩の上にも、茨の間にも、どういう場所にでも種を蒔くのであり、あらゆる人々の心に届こうとしておられます。つまり、イエスは良い人にだけではなく、かたくなな心を持つ人、表面的な受け取り方しかしない人、悪魔の試みやこの世の様々な誘惑に弱い人に対しても、神の王国の言葉をまき続けるのです。
     
     神の国は、何の障がいもない、苦しみも問題もないものではありません。多くの種は駄目になります。しかし、がっかりしてはなりません。多くの種は無駄になるかに見える。しかし、神の国は必ず十字架を通って復活に達します。信仰は、そのように戦い、障がいを乗り越えてゆくことにほかなりません。良い地に落ちた種とは、恵みにのみより頼む人です。誘惑の力、悪魔の誘いにもかかわらず、ついに勝利します。種である私たちは、主イエスの御言葉を聞いて成長させていただきたいと思います。なぜなら、このたとえは、神の国の秘義を語っているからです。祈ります。