カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • ここに道がある

    2023年2月12日
    ヨブ記2:1~10、ルカによる福音書5:12~26
    関 伸子牧師

     今からおよそ20年前に東京三教会退修会で多摩全生園を訪問しました。みなさんもご存知のように東村山市にあるらい病(ハンセン病の旧称)の人たちが共同生活をしている場所です。そこで生活された森本美代治さん(カトリック信者)から証しを聞きました。実名で病むことを許されなかった病だった時代に、実名で『証言・日本人の過ち』(藤田真一編著)証しされている文章から、ひどい扱いを受けてきたことを知らされ心が痛みました。

     「規定の病」と聖書協会共同訳が訳している病名はレプラです。新共同訳は「重い皮膚病」と訳し、口語訳は「らい病」と訳していました。この病人は、自分の皮膚がうろこのようにはがれ落ちてしまうような重い病気を抱えた人です。当時この病は、母胎から腐って出て来た赤子の死体にたとえられるほど悲惨なもの(民数記12:9~12)でした。

     そういうただ中に身を置かざるを得ないひとりの人が今イエスの前に出てきました(ルカ5:12)。絶望のどん底にある人にイエスはどう関わられたのでしょうか。ここで規定の病の人の懇願の言葉は興味深いです。「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」。そして、これに対するイエスの返事は、「私は望む。清くなれ」(5:13)でした。

     イエスがここで期待していたことは、規定の病の人が律法どおりに祭司に幹部を見せ、清めの儀式に関してモーセが命じた物をささげることであり、こうして本人が静かに社会復帰できることでした。そのイエスのもとに群衆が押し寄せることが起これば、イエスは一人静かに退いて祈るときをもお求めになります。それは、神の言葉を語るにも病人をいやすにも、それが父なる神の思いと一致していることを確認するためです。

     そして、ある日のこと、イエスさまが教えておられると、そこにファリサイ派の人々や律法の教師たちがそこに座っていました。彼らはそこに座っていますが、ただ座って見ているだけです。ここには、「主の力が働いて、イエスは病気を癒しておられた」とあります。この主の力は見ているだけの人には働きません。「すると、男たちが体の麻痺した人を床に乗せて運んで来て、言えの中に入れてイエスの前に置こうとした」。彼らは、群衆のために、その人をどのようにかつぎ入れたら良いか、方法が見つからないので、屋根に上って、瓦の間からその人を、小さな床のまま、真ん中に、イエスの前へとつりおろしました。イエスは、彼らの信仰を見て言いました。「人よ、あなたの罪は赦された」。

     主イエスは「信仰」をごらんになります。信仰以外のものはごらんにはなりません。主イエスがこの病人の困窮の中で示されたのは、病気の治療法や慰めの言葉ではありません。「人よ、あなたの罪は赦された」という、ただ一言です。当時、人々は、病気は不信仰の結果とか、悪霊の仕業と考えました。今日私たちが「たたり」と言うのに似ているかもしれません。しかし、罪のゆるしの宣言は私たちを自由にします。

     主イエスが中風の人に対して罪の赦しを宣言されたときに、彼は神を信じ、その時、癒しを含めたすべてが動き始めたのです。しかし、イエスのことばを聞いて、居合わせた律法学者やファリサイ派の人々は不快に思った。後に主イエスの「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」(24節)という言葉に、「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら帰って行った」とあります。この人は、主イエスに促されて試しながら恐る恐る立ち上がったのではありません。彼はすでにキリストを信じ始めていたのであって、すべてが動き始めたのです。

     「人々は皆驚嘆し、神を崇め、恐れに満たされて、『今日、驚くべきことを見た』と言った」(26節)。この物語はこう締めくくられています。たしかに、癒された本人が「神を崇め」(25節)、またそれを見ていた人々も「神を崇め」た。さらに、人々が「恐れに満たされて」ということも起こるのです。26節の「驚くべきこと」は原語では「思いも寄らないもの(パラドクス)」、それは、自分の「考え、思い(ドクサ)」から「外れる(パラ)」ほどに以外なことを意味します。それは、人々を苦難から解き放つ権威であり、語った言葉がすべて実現する権威です。罪人をキリストのもとに運ぶ人間の業が、神の顕現と結ばれ、神の赦しの言葉が響くところとなるパラドックスがここにおける驚きなのです。

     その驚きの中に、信仰共同体である教会は建っているのです。私たちキリスト者は、この地上で、イエスから罪の赦しのことばを与えられています。バプテスマのヨハネはイエスを初めて見た時、「見よ、世を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言いました。罪の赦しがこの教会では必ず起きるのです。そのことを、この物語を聞いた私たちは、よく心に刻みたいと思います。ここに信じる者の道があります。祈ります。