カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 共に歩くイエス

    2023年4月16日
    列王記7:1~16、ルカによる福音書24:13~35
    関 伸子牧師

     どの福音書にも主イエスの復活の出来事が記されていますが、先ほどお読みしたエマオ途上での出来事は、ルカ福音書だけに記録されているキリスト者の記憶に深く刻まれる美しい物語です。レンブラントの絵画で人びとに知られる素朴な田舎家の食卓の光景、また、「日暮れてやみはせまり」(讃美歌21-218)も、共にこの出来事を主題とするものであって、絵画に、音楽に、私たちの魂にしみ入る深い親しみをもつ記事であり、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)と教えた主イエスの言葉が実現したのでした。

     ここではまず悲しみの人たちが登場します。エルサレムからの二人の弟子、もしかすると夫婦が旅立ちました。この二人は、エルサレムで過越祭を祝った後に、エマオの自分たちの家に戻り、十字架刑にされたイエスとその後にイエスの墓場で起こった出来事を自分たちの村に知らせに行ったのでしょう。

     そのとき、イエスご自身が近づいて来て、さりげなく一緒に歩いて行かれましたが、彼らはそれを知りませんでした。主イエスの顔を忘れるはずがない。明らかに、地上で主イエスのお顔を見続けていた弟子たちからすればなおさらです。異常なことです。「しかし、二人の目が遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16節)。「目が遮られていた」とは、メシアの苦難も苦難を通しての栄光も、弟子には分からないという意味です。そのことが分らなければ、主イエスのことが分ったことにはなりません。分からない者たちに向かって、イエスは、「歩きながら互いに語り合っているその話は、なんのことなのか」(17節)と聞かれ、二人は悲しそうな顔をして立ちどまった、と書いてあります。イエスの復活を話しながら、そのことが自分にとって世の光にもならなければ、力にもならなかったのです。

     「死ねばおしまい」。私たちの国では親からそう言われて育つ人が多いと思います。そうだと考えているならば、未来は絶望につながっていると言わなければなりません。そんな人生だとしたら、生きていくのは虚しい。暗闇に支配されたような人生は誰もが嫌だと思います。イエスの質問に対してクレオパと言う人が答えます。二人の弟子のうちのひとりの名はクレオパであるということが明らかにされます。イエスを「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした」(19節)と理解していました。それどころか、「私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)と言います。待望の解放のメシアと信じていたのです。だからこそ弟子となっていた。その意味では主イエスに近い存在でした。そのイエスが十字架につけられて殺された。それも失望を生んだでしょう。二人の弟子たちは、一緒におられる主イエスを、自分たちの暗さの「外」にいる存在としてしまっています。ナザレのイエスが殺され、死んだのに、甦り、「生きておられる」と聴かされたがそのイエスが見当たらない。イエスを失ったのです。

     主イエスは弟子たちに気付かせるために、聖書全体にわたって、ご自分について書かれていることを説き明かされました。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったではないか」と主イエスは語ります。ここに「栄光に入るはず」と訳されているメシアの必然を意味するエデイという表現が登場しています。7節にも登場し、そこでは「必ず」と訳された言葉です。神の必然は既に聖書全体が指し示していることです。植村正久はこの箇所の説教を「主イエスと相親しむ」と題して語り、私の霊魂の鍵を主イエスに渡そうと促します。二人の弟子たちは自分のこころの部屋にイエスを迎えたのだと言うのです。それは次の場面で分かります。

     その日は暮れようとしていました。エマオに向かう弟子たちは同行者がイエスであることにまだ気づかないでいますが、かつて師から学んだもてなしを実践します。「一緒にお泊りください」(29節)。弟子たちは、私たちといっしょにお泊りくださいと、イエスを引き留めました。そしてイエスは彼らといっしょに泊まるため、家の中に入り、食卓につかれました。見知らぬこの人は、パンをとり、それを祝福し、わかちあいます。その時、弟子たちはイエスが以前に同じことをしていたことを思い出します。二人の友人はこのパン裂きによって眼が開かれ、それがイエスであることがわかったのです。いままでは弟子たちが主人でイエスが客であったのが、イエスが主権をとり主人となった。そのような主客の転倒が、従う、信じるということなのでしょう。

     共に歩いてくださった復活のイエスを認めたとき、弟子たちの心は明るく照らされました。「死ねばおしまい」ではない。復活のイエスによって、未来に希望を持てることを知ることができたのです。イエスは生きておられる。私たちと一緒におられる。二人の弟子たちの心は踊りました。そして、時を移さず急いで、来た道を引き返し、エルサレムにいる仲間たちに復活の喜びを伝えに戻りました。

     イエスの復活を証言することが弟子たちに委ねられました。そして、私たちにも委ねられています。復活の命を生きている私たちが神の子の復活の証し人とされる。そのことに感謝します。祈ります。