カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 祈りの路づくり

    2023年4月23日
    サムエル記上1:12~20、コロサイの信徒への手紙4:2~6
    国立のぞみ教会 唐澤 健太牧師

     「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」(2節)。パウロはコロサイの教会の人々に宛てた手紙の最後に書き記した。「ひたすら祈る」とはどういうことか? もちろんひたすら祈るとは24時間365日祈るということではない。そんなことは不可能だ。教会では時々「連鎖祈祷」と言って、ある期間、あることのために誰かが必ず祈っているということをする。しかしそれも時間的には限界がある。

     「ひたすら」とは、ギリシア語辞典によれば「固執する」「専心する」という意味だ。この言葉は「強い」とか「確固たる」という言葉から派生した言葉で、しばしば「不撓不屈の不動性を意味する」と辞書にはあった。何があっても動じないということだ。つまり、パウロがここで「ひたすら祈れ」と勧めていることは、ただ長い時間祈ることではなく、困難にあっても、試練の中にあっても、どんな時にあっても、揺らぐことなく、祈り続けなさいということだ。

     パウロがこのように手紙の最後で命じるのは、「ひたすら祈る」ことに困難を覚える状況がコロサイの人々にあったということだろう。困難の中で祈ることに難しさを覚える者たちが教会の中に、キリスト者たちにあったということだ。困難の中で、試練の中で、私たちの中から祈りが失われてしまうことをパウロは知っていたからこそ最後に「勧め」として手紙に祈りのついて書き記したのだと思う。

     祈るという行為は、人間の自然な営みとも言える。キリスト者でなくても人は祈る。「人間は祈る存在である」。しかし、また困難や試練の中で祈りの挫折を私たちは経験する。「祈っても無駄ではないか……」。幼い子どもでも、「明日の遠足が晴れますように」という素朴な祈りが挫折する経験を味わうことがある。コロナ禍において、子どもも大人もそのような祈りの苦い経験をしてきた。戦争が一日も早く終わるようにと祈っても、事態はますます悪化しているように思う。願いが聞かれないことがいつしか私たちの祈りを困難なものにするのだ。祈っても何も変わらないではないか。祈ることに意味はあるのか? 私たちの願いが聞かれないということが、いつしか私たちの祈りを困難なものにしてしまうのである。

     しかし、祈りとは願うことだけではない。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)。パウロはここで「祈り」と「願い」を別の言葉で言い表している。願うことはもちろん祈りの一部である。しかし、祈りのすべてではない。

     では、「祈り」とは何か? 自分の言葉で「祈り」を言い直せと命じられたらあなたはどのように言い表すだろうか? 教会学校の子どもたちに祈りについて語るときに「祈りは神様とお話すること」とよく言う。「祈りとは魂の呼吸である」とも聞いたことがある。私の友人は、「祈りとは心をまっすぐに神に向けること」と言った。いい表現だ。

     様々なことに私たちの心は引っ張られ、支配される。嬉しいこと、悲しいこと、時には誘惑もあるだろう。その中で「心をまっすぐに神に向ける」。そして、神様に心を向けて、神様が求めておられることを真摯に聞き取ろうとする魂の営みが祈りなのだ。祈りは、神を私の方へ振りかせる行為ではない。祈りは、私が神様の方へ向きを変えることに他ならない。

     そして神と向き合う中で神と対話するのだ。一方的に神に話しかけることは対話とは言わない。私たちは日頃の人間関係においても経験するように、「聞く」という行為があって初めて「対話」は成り立つのだ。つまり神からの語りかけを聞くことなしに祈りは祈りにならないということだ。

     私たちは人生において「どうして」と言わざるを得ない困難に直面することがある。しかし、なおあなたが今日「いま、この時」に神様から命を与えられ、生かされているあなたに、神様は何を求めておられるのか? 神様に心を向けて、神様が求めておられることを真摯に聞き取ろうとする魂の営みが祈りなのだ。祈りとは、私たちが神にしてほしいことを願うと同時に、神が私たちにしてほしいと願うことを聞き取る行為。その対話こそが祈りなのだ。

     パウロは祈りについて勧めた後、祈りのリクエストも書き送っている。みなさんは「祈ってください」と祈りのリクエストを送ったことがあるだろうか? 意外と自分のことを祈りってほしいと依頼することが少ないのではないだろうか。本当に深いところの祈りは「密室の祈り」として捧げられるものだとは思う。しかし、共に祈ることもまた私たちの信仰生活の豊かな恵みであることを覚えたい。

     祈りが困難になることがある。「ひたすら祈れない」ことがある。だからこそ、祈りの仲間とも共に、私たちは祈りの道づくりに励むのだ。そして、「ひたすら祈る」営みが、時代を貫いて、祈りの路として私たちのところに貫かれてきたのだ。「お祈りしかできないのではなく、お祈りできることを感謝しています」。試練の中で発せられた信仰の友の証の言葉だ。「目を覚まして感謝を込めて、ひたすら祈りなさい」。

    今週も私たちの祈りの路づくりに健やかに励もう!