命を与えてくださるイエス
2023年4月30日
出エジプト記16:4~16、ヨハネによる福音書6:34~40
関 伸子牧師
ヨハネによる福音書第6章は、「イエスは命を与える」というテーマが、これから「しるし」を通して展開されます。主イエスが増して与えられたパンは、「朽ちる食べ物のためではなく・・・・・・永遠の命に至る食べ物」(27節)を信じさせるためでした。イエスが水の上を歩かれたのも、「私だ(エゴー・エイミー)」という言葉に示されているように、御自分がメシアであることを信じさせるためでした。
イエス・キリストを信じるとはただ頭だけで言われたとおり信じ込むことではありません。イエス・キリストによる罪の赦しを心から信じ、これに身を委ねることです。そして、ここに本当の人間の心の奥底の願望への解決があります。この世の与えるものはこの願望に答え得ないからです。私たちは、どうしても、目先の物質的なことだけに捕らわれます。この世は金、物、地位、健康や欲を求め、日本の宗教も結局それを補充するものであることを思わされます。もちろん第6章で、パンと魚の奇跡が、また第5章では足の不自由な人のいやしが述べられているように、神は、そして主イエスはこの世の身体的、物質的な苦しみに対しても十分な憐れみと配慮をもっておこなわれるのですけれども、それがすべてではない。もっと根本的なものを求めなければならないことが説かれています。
それは31節以下にも示されています。マナとは先ほどお読みした出エジプト記第16章4節にあります。砂漠で飢えたとき神が与えられたものです。かつてモーセが率いるイスラエルの民は、天からのパンであるマンナを与えられたことで、40年の荒れ野の旅においても、飢えることなく養われ導かれました。イエスも5000人の群衆に、パンと魚を与えられ、満腹になさったので、群衆はこの方こそ申命記第18章15節で予言されている、来るべきモーセのような預言者にちがいないと期待したのでした。しかし、群衆が求めていたものは、イエス御自身ではなかったのです。5000人に食事を与えるほどの力があれば、ユダヤをローマから解放してくれる。ローマから解放されたら、ユダヤ人は異教徒の支配から自由になり、生活も楽になることでしょう。ヨハネ福音書が生まれた頃の教会も小さな教会で、しかもいつも国家権力の圧迫の下にあったことは確かです。しかも、使徒言行録などを読むと、パウロはローマの市民の権利を持っていたために、ユダヤの権力から免れて命を長らえることができたと書いています。そして、そこで、たとえば35節に、「私が命のパンである」という言葉を、心を込めて書き留めたのです。
ユダヤ人たちは答えて言いました。「主よ、そのパンをいつも私たちにください」(34節)。今ここで「主」と呼びます。イエスに対する期待が高まっていることが見て取れます。これを見て、イエスは言われました。「私が命のパンである。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(36節)と。「私が命のパンである」。天からのパンはイエス御自身において現在している。真の奇跡はイエス御自身において現在している。
私たちも、生活の中でいちばん気にかけているのは、食べることです。また、食べるためにお金を得ようと必死になります。それが満たされていれば、幸福に生きられるかのように思ってしまいます。しかし、そういうことで人間は幸福になることはできない。いくらパンを食べて満腹しても、一時的なことであって、また飢えてくるように、命そのものを完全に満たすことはできないのです。飢え渇きをなくすことができるパンは、命そのものを満たす「命のパン」なのです。
命が永遠に守られるためには、神との和解が必要です。神の御心は、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。39節でそのことが繰り返されます。「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(39節)と述べ、さらに続く40節でも「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」と同じ内容を繰り返しています。終わりの日にイエスを通して行われる「復活」をよほど強調したかったのだと思われます。
「私は命のパンである」と言われる方が来られたときに、それを信じない人がいるという事実、信じないがために死に向かって歩みながらも望みを抱くことができない、そういう歩みがある事実を捨てることはできない。世には信仰と不信仰がある。それに相応じる救いと滅びとがある。しかし、その不信仰を明らかにしながら、そのユダヤ人のなかからイエスは弟子たちをお選びになりました。その弟子たちに捨てられ、あなたがたもわたしを捨てるのか、と言われながら、またその弟子たちもイエスのみもとに帰って来る道を、ご自分の死と甦りをもって拓いてくださいました。そして「私は命のパンである」と言ってくださる。〈私そのもの〉を食べて生きたらいい。わたしはいつまでもそばにいる。このみ言葉を深く心に刻んで生き続けたいと願います。祈ります。