カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 私たちの友、イエス

    2023年5月7日
    申命記7:6~11、ヨハネによる福音書15:11~17
    関 伸子牧師

     ヨハネ福音書第15章は、主イエスの弟子たちへの優しさに満ちています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」という主イエスのメッセージを中核にして、「私は・・・・・・である」、「あなたがたは・・・・・・である」という主イエスの言葉によって、「私たちは誰であるのか」を明確に告げてくれる、私たちがどうしても聴かなければならない真理を告げる聖書の言葉です。ここで教えられるように私自身が誰であるかを知るならば、実り多い人生を生きるようになります。この「私」と「あなたがた」との関わりは、「つながっている」と訳しているギリシア語ネメインが語る関わり、私、つまり、イエス・キリストのなかに深く根をおろした存在関係にほかなりません。

     ここでは、「私は誰か」という問いは「私たちは誰か」という問いと重なります。この複数の存在のなかで、単数の存在としての私もまた私となります。従って「私たちはキリストの弟子です」と答えることによって私たちのアイデンディディもまず捕らえられます。食事の席で弟子たちの足を洗われた主イエスは、「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」(13:14,15)。第15章でもそれを受けて、「あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる」(8節)と語られます。

     11節は、このヨハネの言葉を思い起こさせつつ、ぶどうの木イエスに連なる歩みに生きる者に与えられる喜びを語ります。主イエスは「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した」と述べてから、「私の愛にとどまりなさい」と教えます。

     続けて、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである」(12節)と主イエスはおっしゃいました。掟というと、主人の命令に、嫌でも服従を強いられているといった面倒なイメージがあります。イエスが与えられる掟は、そうではないのです。ヨハネが述べる「掟」は「モーセの律法の掟」、つまり文書化された規則のことではなく、むしろ「御父が御子に、また御子が弟子たちに示した指示」のことですから、指示の背後にある御父の愛と御子の愛が大事な要素になります。この愛に触れ、喜びに満たされていなければ、守ることはできません。イエスの愛は、「友のために自分の命を捨てる」愛であり、「これ以上に大きな愛はない」(13節)と言われる愛なのです。

     更に驚くべき言葉を聞かされます。14節、15節です。「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。「あなたは誰ですか」。「私はキリストの友です」。そのように答えることもできるというのです。そのように信仰告白の言葉を教えることができるのです。なんと驚くべきことでしょうか。イエスを信じてキリスト者になった者は、罪の奴隷であったところから解放され、父なる神に神の子として認められ、自由の身となっているのです。

     私たちも、イエスのよって、神の子となり、自由な身とされています。キリスト者となることは主の友だちとなることです。友だちであって、僕ではありません。僕は命じられるから行うのであって、主人の考えをよく知りそれを共有しているからではないのです(15節)。これは、冷たく形式的です。友だちとしての行動は内側から湧き出て来ます。友愛は親交を前提にします。親交とは、つまり、私たちが大切に思い、愛する人々の願いや気持ちを自分のものにすることです。

     選ばれ、任命され、愛のわざに出かけていく、この「イエスの友」たちに、イエスは言われたのです。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」(12節)。「喜びの約束」は、これに先立って語られていました。いわば、掟が必ず守られることを、主が約束していてくださっているとも言えます。掟が守れないで、喜びが完成することはないからです。そして、喜びの完成を約束された主イエスが、その喜びの友たちによって、ご自身の掟が守られる道をも備えていてくださる。そのこともまた信じるべきことです。

     キリストの弟子、キリストの友、そしてキリストの僕として生きるキリストの教会のすがた、そこに生きる私たち、私は、もはや自分とは誰かを問う必要もなくなりました。そしてただ喜びに生きる姿がここにあるのです。祈ります。