すばらしい信仰に生きる
2023年5月14日
ダニエル書6:10~23、ルカによる福音書7:1~10
関 伸子牧師
弟子たちと民衆に神の愛や裁きに関する説教を説いてから、主イエスは、カフェルナウムにやって来ました(6:20~7:1)。その時、百人隊長の僕の病をいやす奇跡を行われました。
「ところで、ある百人隊長に重んじられている僕が、病気で死にかけていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、僕を助けに来てくださるように頼んだ」(2,3節)。平行箇所のマタイ福音書第8章5節から13節では、百人隊長は自らイエスのもとに近づいて病の癒しを懇願しますが、今日の箇所において、百人隊長は使いを送り、自分はイエスの前に出ようとしません。
カフェルナウム在住の百人隊長は、ヘロデ領主に仕える異邦人軍人でした。それで、病気の僕をいやしてもらうときにも、ユダヤ人であるイエスに接することができず、「ユダヤ人の長老たち」を送らなければなりません。イエスが来てくださっても、家に迎え入れることを恐れて、「ただ、お言葉をください。そして、私の僕を癒してください。私も権威の下に服している人間ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(7,8節)と言います。この信仰がクローズ・アップされて、いやしの物語は背景に退いています。
百人隊長は、自分の属する権威体系が、「行け、来い、しろ」という点では効果があっても、「生きよ」という点では権威がない、と認めます。イエスのもつ神の権威は、王の権威とは別のものなのです。御言葉の権威を信じるとは、まず、こういった別のレベルの権威を信じることです。
百人隊長は使いを通して「ひと言おっしゃってください」と願います。これを直訳すると、「言葉で言ってください」となりますから、イエスの言葉があれば部下は癒されると信じています。マタイ福音書でも「ただ、言葉で言ってください」とあるように、言葉への信頼に注目していますが、ルカ福音書はイエスの前に出ようとしない百人隊長を描くことによって、イエスからの恵みをひたすら待つ信仰を強調しています。イエスが「これほどの信仰を見たことがない」とたたえた信仰とは、受けるに値しない自分にも言葉が与えられると信じて待つ信仰です。
主イエスはいのちの助けを求める人がいるとき、ご自身のすべてをもってこれに応えようとなさいます。イエスの働きの射程は私たちの思いよりはるかに広く、大きく、深いのです。しばしば人間の側での「信仰」に注目されるところで、「神の働き」という面から見直すことが大切です。百人隊長の信仰、それはつまり、百人隊長の内に働く神の働きと言うことができます。
イエスがなさった奇跡において、イエスは常に先行し、主導し、主動しています。ここで働かれるのは主イエスただひとりであり、イエスはただひとりですべてのことをなさるのです。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰(神の真実の働き)、(それに対する信仰)は見たことがない」(9節)と主イエスは言われました。これは旧約聖書に伝えられるさまざまなできごとと比べ、それまでにイエスがなさったいくつものできごとと比べての、比較の表現ではありません。絶対的な表現です。
問題は信仰です。イエスを神の子と信じることがすべてであって、そのことができさえすれば、人生において受け得る最大の賜物を神から受けたのです。イエスの奇跡はこの信仰に対して現わされます。「使いに行った人たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた」(10節)。この送り出された百院隊長の友人たちは、イエスが百人隊長の信仰を賞賛する言葉を聞いて、百人隊長の家に戻るとすでにその僕が健康になっているのを見ました。この僕は単にいやされただけではなく、健康になったのです。イエスがイスラエルの中に見られないような信仰を百人隊長のうちに見出したのに対して、百人隊長の友人たちは百人隊長の家の中で健康になった僕を見出しました。
私たちが救われるということもまた、これと同じように、一回限りのことであって、主イエスの言葉に信頼して歩んできたことの恵みを思い起こせば、それはそのまま私の信仰の証しになります。百人隊長がこのできごとを証ししたように、私たちの救いの物語を証しすることを喜びとしたいと思います。祈ります。