カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストの愛に感謝する

    2023年9月17日
    創世記37:12~28、コロサイの信徒への手紙3:12~17
    関 伸子牧師

     コロサイの信徒への手紙は、パウロが獄中から書いたとされ、80年代が執筆の時期と推測されます。かつて神から離れて生きていたパウロが、今は「新しい人」を身に着けて、コロサイの人々に、そのあるべき生き方を示します。
     
     「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(12節)と書いています。「聖なる、愛されている者」は私たちが神に愛されている者たちであることを明らかにしています。しかも、この語はかつて愛されたことがあるということだけでなく、その愛が継続し、その行為を現に受けていることを意味しています。そのような者たちに新しい人となることが語られます。

     キリストのよみがえりのいのちに生かされる時、どのような人種も民族もその区別が失われ、すべてが新しい神の民となります。ある人が証しで、洗礼を受けた時に自分は日本人というアイデンティティーから天国の市民へと変えられた神の民であると言っていたことをよく思い出します。神が私たちを選んでくださった。私たちは、神ご自身のものとして分かたれた者として、人生はもはや自分自身のものではなく、神のものとなったのです。

     新しい人とは、どのような人のことでしょうか。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。新しい人は、作り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです」(コロサイ3:9b,10)と記されています。

     まず「古い人」というのは、「怒り、憤り、悪意、冒瀆、口から出る恥ずべき言葉」(3:8)や、「嘘」(3:9)を、まるで服を着ているかのように身につけて生きている人のことです。すなわちキリストを信じる前の生活です。これらを脱ぎ捨てて、神に従う「新しい人」にならなければなりません。

     「新しい人」というのは、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」や「互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても許し合い」、というあり方を、まるで服を着ているかのように身につけて生きる人です。それはキリストを信じてからの生活です。「憐れみの心」「慈愛」の二つは他者への愛です。後の三つ「謙遜、柔和、寛容」は、自分の控え目な態度、自分を低くする態度と言えるでしょう。

    ここに挙げた新しい生活は、たいへん貴い生活です。しかし貴すぎて、どうも自分には馴染みそうにないようだと思えるかもしれません。新しい服というのは、大きすぎたり、馴染まなかったりするものです。そこで、主に赦された者は「さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です」(14節)と言われているように、愛を身に着ける者へとなってゆきます。

     そのような神の愛に結ばれるとき、私たちに感謝の心が生まれてきます。この感謝は決して盲目的なものではなく、自分の心から無理やり絞り出すものでもありません。キリストの言葉が私たちの心の内に根付いていく時、招かれる資格のない罪人の自分が招かれているさいわいを覚え、心に感謝がわいてくるのです。

     ダビデ王は、神の霊によって数々の詩を作りましたが、「詩編」の多くはこのダビデ王によるものです。「賛美歌」は、この世から言わば天に向かって歌う歌であり、「霊的な歌」は、天上からこの世に対する祝福の歌を指しているのでしょう。キリストがキリスト者の内に住んでいる以上、キリスト者がその心から歌う歌は、神に対するキリストの歌であり、聖「霊(プレウマ)」に満たされたキリスト者は、聖なる「霊(プレヌマ)」によって歌うのです。いずれにしても、この歌は、「上のもの」に思いを寄せる霊的生活の中で重要な位置を占めています。

     最後に次の言葉でこの箇所は締めくくられています。「そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい」(17節)。神の愛を思い、感謝の心に溢れて礼拝をささげる。感謝の心に溢れて日常生活を送る。そのことはキリスト者がキリストを着ているので、自然な気持ちからできるようになるのではないでしょうか。こうして、馴染まないように思えた新しい服も、自分のものとして、馴染んでくるのです。「キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです」(11節)。すべての人は、新しい人に変わることができる。キリストが、この私の内にもおられるからです。

     主イエスの十字架、そこから注がれる愛は、肌着のようなものである、と言った人があります。肌着のように見えない愛が、私たちの心と体を温めているのです。暑さ寒さも彼岸まで。これから涼しい季節を迎えます。この季節の変わり目に主イエスの暖かさを、もう一度思い起こしたいと思います。そして、キリストにあって新しく生かされ、キリストの愛に感謝する日々が豊かに祝されますように。お祈りいたします。