カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神への道を知る

    2023年9月24日
    ミカ書7:8~10、ヨハネによる福音書14:1~6
    関 伸子牧師

     今朝、わたしたちは、先に天におられる神のみもとに召された方たちを覚えて召天者記念礼拝をささげています。この1年のうちに3名が主のみもとに召されました。その中のおひとりは9月21日に主のみもとに帰られました。東小金井教会で長年、長老としてお仕えされた方でした。今朝、ご遺族、関係の深い方が出席されています。

     私たちは今も深い悲しみのなかにあります。教会では信仰をもって生きることをお勧めします。信仰をもっている人間であれば、どのような時にも心の平静さを保っていることができるだろうと思われがちですが、必ずしもそうではありません。椎名麟三というキリスト者である作家が何かの対談で、「自分が死ぬ時には、きっと『死にたくない。死にたくない』と言いながら、往生際の悪い死に方をするに違いない」と言っていたことを印象深く読みました。私はそれでもいいと思います。最も大事なことは、私たちの心が平安であるかどうかということではない。もっと大事なことがその根底にある。それはイエス・キリストが共におられるという事実です。イエス・キリストが私たちを受け止めてくださっているという事実。このことこそが、最も大事なことなのです。本日与えられている御言葉から主が共におられることを覚えたいと思います。

     「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ」(1~2節)。

     もう少し先にも「心を騒がせるな」(14:27)という言葉が出てきます。近い将来、弟子たちが心を騒がせるようなことが起きてくることを主イエスは想定して、弟子たちを力づけるために話しをされました。この時の弟子たちは、信仰をもっていたにもかかわらず、動揺していたのです。心を騒がせざるを得なかった。それでも主イエスに受け入れられていました。問題に直面して不安や混乱に飲み込まれそうになるとき、このみ言葉が語られ、信仰に立たされた経験を、教会に仕える牧師、信徒は何度もしていると思います。

     2節、3節の言葉はしばしば葬礼拝の時に読まれる箇所ですが、これは単に死後の世界のことを言っているのではありません。主イエス・キリストはどういうお方であるのか、一体何をするために、この地上に来られたのか、それを端的に語っている言葉であると思います。イエス・キリストのふるさと、父のふところ、天の住まい、別の言葉で言えば、永遠の世界から、私たちの、この限られた時間をもつ世界に来られた。神が人となられたとは、そういうことです。何のためか。それは、私たちを永遠の世界へと招き入れるためです。ですから、これは私たちが生きている時であろうと、死ぬ時であろうと、主イエスがこの世界に来てくださったことによって、私たちは永遠の世界をかいま見ることが許された。そして、主イエスに連なって、そこへ行くことが許されるのです。

     弟子のトマスはこう言います。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう」(5節)。トマスは、イエスの12弟子の一人です。彼は弟子たちの無理解ぶりを代表しています。しかし、このトマスの率直な質問によって、イエスの口から父なる神のことや将来起こるはずのことが語られました。

     「私は道であり真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができな。」(6節)イエスはそう言われました。しかしそのイエスが、いま風前のともしびのように、強盗たちと同じような人間として葬り去られようとしている。ののしられ、あざけられ、辱められ、この世から抹殺されようとしている。だれ一人として弁護する者はいない。そのイエスが、私は道であり、真理であり、命であると言われました。このようなイエスだけを見ていたら、どうしてイエスが道であり真理であり、命であると言われた主イエスの言葉は、慰めの言葉となってくるのです。
     
     確かに、主イエスは歩けない人を歩かせた点で道であり、人の誤りを正した点で真理であり、死人を生き返らせた点で命です。またこのことばは、イエス御自身が初めであり、真ん中であり、終わりであることも示しています。なぜなら、人は真理に導かれて道を歩き初め、永遠の命に至るからです。ちなみに、初代教会においてイエスをキリストと信じるキリスト教はこの「道」と呼ばれています。このお方のみ言葉に従うことが神を知る道へとなるのです。お祈りをいたします。