希望の約束に生きる
2024年1月7日
イザヤ書30:15~26、ヨハネによる福音書17:6~19
関 伸子牧師
新年早々、落ち着かない日々を過ごしていますけれども、今年最初の主日礼拝において御言葉から希望の約束を聴き取りたいと思います。
ヨハネによる福音書第17章で、主イエスはとりなしの祈りの中で、繰り返し、神とキリストは信じる者たちといつも共にある、と祈ります。この祈りによる希望の確信は、ユダヤ教徒との軋轢、またローマの迫害の中で、キリスト者の群れを支え、導きました。
6節から10節までに、この世と神に属する群れがはっきりと区別されていることがお分かりになると思います。ここで語られているのは、教会の基礎はどこにあるのか、教会を教会とするもの、キリスト者の生命はどこから来るかということです。それは、世から来るのではなく、キリストから来る、キリストの言葉から来る。キリスト者は世にありながら、しかし世のものではない、ということがここで繰り返し示されています。
弟子たちは、世から選び出された者であると言うことができます。ところが、世から選び出された弟子たちは、皮肉にも、あるいは当然ながら、世に憎まれる者として立っています。「私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました」(14節)。イエス・キリストが世に憎まれて、十字架にかかって死なれたのですから、そのイエス・キリストに従っていく弟子たちも、多かれ少なかれ、それに似たものとされ、この世と対立する部分が出てきます。この世から選び出されて、この世と対峙するかのようにして異質なものとしてある、ということです。
11節に、こういう祈りの言葉があります。「私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。」この主イエスの祈りに応えて父なる神が守ってくださるところで、教会は生き始めました。この後すぐに主イエスを見失いましたけれども、しかしなお、ひとつの群れとして生き抜くことができました。父なる神のみ手が守ってくださったからです。先ほどイザヤ書の第30章にありましたように、人間は、愚かさに愚かさを重ねて生きた。神の民もまた過ちを繰り返し、そのために傷ついた。そこで一所懸命に、神が私たちを守っていてくださいました。過ちを糾し、傷を包み、癒してくださいました。その神の救いのみ手が、今ここで生きて働いていてくださいます。どうして神の守りが必要なのでしょうか。それは、私たちが滅んではならないからです。
キリスト者は世のものではないけれども、しかし、世から取り去られることを祈るものでもない。教会は、世にあって、世にならわず、世の罪を負い、罪と戦う教会、十字架の下にある教会です。「神の恵みは、私たちは自己満足に眠り込んでしまうために与えられているのではなく、目を覚まして罪と戦うために与えられているのである」とルターは語っています。
「彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです」(19節)。キリスト者であり、キリスト者になるということは教会に生きることだと考えてきましたが、それはここで語られている言葉で言うと、聖なる者として生きるということです。使徒信条では、私たちは教会を「聖なる公同の教会」と呼び、そして「聖徒の交わり」と続けます。聖徒の交わりを信じる。これは私たち自身が聖いことを信じるということです。教会は長い歴史の間に、ずいぶん悪いこともしてきました。それを認めざるを得ません。だからこそ使徒信条は言うのです。聖徒の交わりを信じる。私たちは、しかし聖い。私たちは、なお聖さに生きている。神の者とならせていただいているからです。
神が全く自由に私たちを全く自由に選んでくださった。主イエス・キリストは全く自由に私たちの足もとに入り込んで、汚れを拭って、聖めてくださり、健康な人間にしてくださって「あなたが私を選んだのではない、私があなたを選んだのだ」と声をかけてくださっているということです。こんなに確かなことはありません。こんなに私たちを深く慰めることはない。だから、私たちは主イエスのからだを、私たちの全存在をもって造ることができるのです。選びとは、ひとりひとりの問題であると同時に、教会の問題、教会にとっての課題です。神の全く自由な恵みが、私たちを選んで生かしてくださっている。
主イエスは弟子たちのためだけではなく、「彼らのこと言葉によって私を信じる人々についても」(20節)祈られます。この人々の中に、今、ヨハネ福音書を読んでいる私たちも含まれているはずです。主イエスが私のため、私たちのために祈ってくださった。直弟子たちがこれらの人たちのための証し人となったように、これらの人たちも世のための証し人となるよう召されています。私たちのところに来てくださった主イエスの愛の出来事によって。そのことをあらためて深く知り、主の証し人としてここから送り出されていくことに感謝します。お祈りをいたします。