カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエスといっしょに留まる

    2024年1月14日
    サムエル記上3:1~10、19、ヨハネによる福音書1:35~51
    関 伸子牧師

     ヨハネ福音書第1章35節以下に、主イエスと最初の弟子たちとの出会いの場面が描かれています。洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに、アンデレは兄のシモンに証しをしました。そこには信頼関係があります。
    主イエスの最初の弟子となったシモン・ペトロとアンデレの二人が、イエスのあとについて行くと、イエスの方が「振り返り」、先に言葉をかけられます。「何を求めているのか」。彼らはあわてて、「ラビ―先生という意味―どこに泊まっておられるのですか」(38節)と尋ね返します。この問いの「泊まる」は、単に宿泊場所を聞くにすぎなかったでしょう。しかし、ここで「泊まる」と訳された語は、主イエスが「私はぶどうの木。あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない」と語ったときに「つながる」と訳された言葉です。イエスは二人に「来なさい。そうすれば分かる(直訳では「見る」)」と言います。

     その言葉に従った二人が「見た」ものは、もはや宿泊場所ではなく、イエスが「つながり、とどまっている」ところ。それは父である神との交わりそのものです。彼らは、イエスと一緒にそこにとどまることにより、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と証ししたイエスがどのような方であるかを、身をもって体験したのです。その体験から弟子たちの新しい歩みが始まります。
    主イエスの答えは非常に具体的です。「来なさい。そうすれば分かる」(39節)。イエスとの出会いがどれほど印象深いものであったかは、「午後四時頃のことである」(39節)という時刻の指摘からもそれがうかがえます。私たちの人生にも「午後四時」、すなわち、主と出会う決定的な瞬間が訪れます。

     サムエル記第3章1節から10節、そして結びの19節に「サムエルは成長し、主が彼と共におられたので、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」とあり、続いて「主は引き続きシロで御自分を表された。主は御言葉をもって、シロで御自身を表された」(21節)とあります。何のこともなく読み飛ばしそうな表現ですけれども、サムエル記上第3章が、「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。当時、主の言葉が臨むことはまれで、幻が示されることもなかった」とあることから考えると、第3章全体のテーマは、「主の言葉が臨むことが少なくかっていた時代に、まだ主の言葉を知らなかった少年サムエルに語りかけた主は、その後も引き続きシロで主の言葉をもってサムエルに御自身を示された」ということです。

     「寝るも奉公」ということわざがあります。ことわざ健康事典には「眠るも奉公」として説明があります。盆と正月以外、きまった休日など殆んどない厳しい労働条件のもとに働いていた江戸の昔の奉公人達が、ちょっと息抜きがしたくて吐き出した言葉とあります。
    少年サムエルは「神の箱が安置された主の神殿に寝ていた」とありますから、昼の仕事とは別に、夜は神の箱を見張るために神殿で寝たのかもしれません。「寝るも奉公」と言えなくはありません。サムエルが神殿に寝たのは、イエスのもとに「泊まった」弟子たちのように、神殿に臨在する神とのかかわりの中に自分を見出す人になるからではないでしょうか。主はサムエルと共にいて「その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」。

     弟子に変えられた者はそこにとどまり続けはしません。起こったことを語り伝えるために、外へ出ます。「私たちはメシアに出会った」(ヨハネ1:41)。主と出会ったのはこの最初の弟子たちに留まりませんでした。この出来事は分かち合わなければなりません。主イエスに従うことは、個人的な事柄で終わらず、共同体における出来事です。私たちも主イエスとともに留まり、その後「メシアに出会った」と告げるようにと招かれています。

     今日のヨハネによる福音書第1章51節は次の言葉で終わります。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
     この箇所には「見る」という言葉が繰り返し使われています。ヨハネは、「見よ、神の小羊だ」と言って主イエスを示します。主イエスはナタナエルを指して、「見なさい。まことのイスラエル人だ」と言いました。ヤコブが夢の中で見た「天使が昇り降りする」出来事(創世記28:12)を弟子たちは実際に見ることが約束されています。かつて族長ヤコブは、ベテルで野宿していた時に、天が開けてはしごが立てられ、天使たちがそれを上り下りする夢を見ました。ナタナエルは木陰でこの箇所を読んでいたかもしれません。ユダヤ人はいちじくの木の下で祈り、黙想することを常としていたからです。主イエスは、ご自身が天と地との間に立てられたはしごであって、神と人との不断の交わりを可能にすると約束されました。人はこのお方を通して神に近づくことができるのです。 

     その「見る」という言葉は、ギリシア語ではいくつか使い分けがされています。弟子たちがイエスと共にいてできたことは、イエスが表す一つ一つのしるしを見ることです。おそらく感覚的に見た、そこに居合わせただけであり、その意味がわからなかったでしょう。しかし、弟子たちはその一つ一つを心に刻みつけていきました。
    主イエスの言葉に従って、信仰を持って歩む新しい一歩を踏み出した弟子たちにつながっていることを感謝します。その恵みに答えて、私たちひとりひとりと出会ってくださった主イエスを証しする日々に祝福が豊かにありますように。お祈りをいたします。