カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • そっと救う神

    2024年1月21日
    出エジプト33:12~23、ヨハネ12:1~12
    関 伸子牧師

     ヨハネによる福音書第2章に、カナでの婚礼でイエスさまが「しるし」を行ったことが書かれています。カナの地で主イエスが伝道なさったときに最初に主イエスが招かれて婚礼に連なり、またその婚礼の喜びに人びとを招かれた。ヨハネによる福音書は、キリストの教会はこの婚宴の喜びを知るところにあると言いたいのではないでしょうか。そこから信仰の歴史が始まり、伝道が始まりました。

     ガリラヤのカナという町で、ある人が結婚式を挙げ、その結婚披露宴での出来事です。主イエスの母がそこにいた。イエスもその弟子たちも婚礼に招かれました。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がありません」と言いました。主イエスであれば、この事態を何とか打開できると思ったのでしょう。しかし、イエスは母に言われた。「女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません」(4節)。

     母に対してこのように言うことに驚きます。しかし、冒頭の「女よ」、この呼びかけがギリシア語の普通の用例から見て、悔蔑や冷淡さを表しているわけではありません。とは言え、息子が母に向かってこの呼びかけを使うのは異例です。そこで、一般的な解釈では、イエスは母と子の絆から離れて、もっぱら天の父との関係に入ったことを母に知らせたかった、と説明されます。しかし他の可能性がないわけではありません。それによると、この呼びかけは必ずしも母子関係を否定するのではなく、むしろ、婚宴の席にいながら「ぶどう酒がなくなりました」と台所まで心を配るマリアを見たイエスは、マリアのその配慮を讃えて”女よ”と呼びかけた、というのです。どちらの解釈も捨てがたいものがあります。

     しかし、私たちにとってさらに解釈がむずかしいのはイエスが語る次の言葉です。「女よ、私とどんな関わりがあるのです。」これはヘブライ語独特言い回しですけれども、聖書の用例を調べると、そのニュアンスがいくつかに分かれる。ここでは、「自分の仕事とは思えない仕事を頼まれ、しかもその仕事が相手にも実行不可能だとわかっている時にこの言い回しが使われれば、「この仕事はわれわれの仕事ではない」の意味になる(サムエル下16:10)」という意味で使われているのでしょう。つまり、せっかく盛り上がった宴を頓挫させたくないマリアは、ぶどう酒を手入れる手立てがどこかにないかと気をもんで、「ぶどう酒がなくなりました」とイエスに話しかける。神に信頼をおくイエスは、「女よ、それは人間であるわれわれの仕事ではない、必要とあれば天の父がそれを備えてくれる」とマリアの心を神へと向けたのです。神はそっと救ってくださる。これは、神の顔を示す最善の方法です。

     マリアは召使たちに、「この方が言いつけるとおりにしてください」と言いました。この時のマリアの願いもすぐにこたえられたわけではなかった。しかしマリアの願いはイエスに届いたのです。祈りがきかれていないように思える時でも、とにかくこの祈りは届いている、と信じたからこそ、マリアは召し使いたちに、「この方が言いつけるとおりにしてください」と言ったのでしょう。

     そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが6つ置いてありました。いずれも2ないし3メトレテス入りのものです(1メトレテスは約39リットル。2ないし3メトレテス入る水がめは100リットルくらいの大きな水がめ)。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使たちは、かめの縁まで水を満たしました。イエスは、「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。召使たちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒どこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていましたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで言いました。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました」。イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされました。それで、弟子たちはイエスを信じました。

     ここには、ぶどう酒がなくなるという事件を、栄光をあらわす場に変えられる主イエスが示されています。ぶどう酒を象徴的に理解すると、それは私たちを喜ばすものということです。「水をワインに変えた」ことが輝かしい奇跡で、イエスの株が上がったというような意味ではありません。イエスのメシアとしての救いの業が、象徴的にも、現実的にも遂行され、人々がそれ受け入れて、イエスを信じたところに、この福音書の言う「栄光」があるのです。

     「どこから」という言葉はヨハネ福音書でとても大事な言葉です。主イエスはどこから来られたのか。あそこから来られた。あの「神のみもと」から来られた。主イエスは、神ご自身にほかなりません。この方がここでこのようにして、ささやかな宴席を豊にもてなしていてくださる。おそらく弟子たちはその僕たちを退けて、お前たちは信仰がなかったのだからそんなことは言えないなどとは言えなかったと思います。そうではなくて、自分たちもその僕として生かされている喜びを新しくして、「水を汲んだ召使たちは知っていた」という言葉を書き記し、口にしたし、それを繰り返して口にすることを喜んだに違いありません。それはまさに弟子足る者の姿です。そのようにしてこの主の恵みの物語が教会を造ってきたし、なお私たちの信仰と教会の歴史を造る力となることを感謝して受け入れ、私たちもこの主の栄光を見続けていきたいと願います。お祈りをいたします。