カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の恵みをむだにせず

    2024年3月3日
    ヨシュア記24:14~24、ガラテヤの信徒への手紙2:15~21
    関 伸子_牧師

     「私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」(ガラテヤ2:15,16)。

     パウロはこのように語り始めます。パウロたちは「生まれながらのユダヤ人」、律法の民であり、神も律法も知らない「異邦人のような罪人ではない」。特にパウロは律法の義について非難されるところのない者でした。
     しかし、その律法にたけたパウロが語るのです。15~21節に「義とする」という動詞が四回用いられています。「義とされる」とは一般に、神と良い関係を持つ者とされることです。この節は従来「キリストへの信仰により義とされる」と訳されてきましたが、聖書協会共同訳は「義とされるのは・・・・・・キリストの真実による」と訳します。このように翻訳に変更が加わったことには二つの事情が関わっている、と『ここが変わった!聖書協会共同訳 新約編』は次のように説明しています。

     「一つは、これまで「信仰」と訳されてきたピスティスというギリシア語が「真実/誠実さ」とも十分に訳し得るということです。もう一つは、これまで「キリストへの」と訳されてきたクリストゥーというギリシア語が文字どおりには「キリストの」であるということです。ギリシア語文法には「格」という概念がありますが、これは日本語文法での助詞である「てにをは」のような機能を果たしています。クリストゥーは、本来の「クリストス(キリスト)」という名詞に格変化が起こって属格という格の形になったものです。属格の「クリストゥー」が「ピスティス」につながる場合、「キリストのピスティス」とも「キリストへのピスティス」とも訳すことができます」(104頁)。

     もしかしたらパウロは、どちらの意味とも訳し得る「ピスティス・クリストゥー」という表現を用いることによって、読者が信仰の営みの両側面の重要さを強く心に留めるよう促しているのかもしれません。いずれの訳も、キリストと私たちの信頼関係(ピスティス)が信仰生活の鍵であることに違いはありません。

     パウロの信仰はなぜはっきりしているのでしょうか。それはパウロが学問をしたからではなく、律法に一生懸命生きたからです。神の前に心を尽くし、力を尽くして主なる神を愛する、あるいは隣人を愛することに一生懸命になっていくとき、私たちは愛し得ない自分を見出します。そのとき、キリストが十字架について死んでくださったから、私の罪はこれで死んだのだと、イエスの十字架にすがらなければならなくなってくるのです。

     生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の中に生きており、キリストがよみがえられたように、私は罪ゆるされ、神の子とされたのだとパウロは語ります。現に、いま生きているのも神の恵みによるのであり、私は神の恵みを無駄にはしない。もし、義が律法によって得られるとしたら、キリストの死はむだになってしまうではないか。パウロは、ガラテヤの教会の人が再び律法主義に帰ろうとすることに対して、非常な憤りというか、情熱を持って自分の信仰を告白しているのです。

     パウロが言う「十字架につけられました。」は、あの日あの時だけといった過去を言っているのではありません。今も十字架につけられている! だから、その十字架ぬきで今日を考えることはできません。そういう今を生きる。パウロは続けて言います。「私は神の恵みを無駄にはしません。なぜなら、もし義が律法を通して得られるならば、キリストの死は無駄になってしまうからです」(21節)。

     パウロは、ただ、キリストの恵みによって立っている、と確信していました。それゆえに、パウロの考えは、いつでも、キリストの恵みが空しくならないように、ということでした。それを、自分について言えば、自分は、決して、キリストの恵みを無駄にするようなことはしない、ということになるのです。信仰生活は、恵みによる生活です。だから信仰生活をしている者は、みな、パウロと同じように、キリストの恵みを無駄にしないようにすることを第一に考え、最後まで持ちつづけることなのです。パウロが、毎日、一日中、願いつづけていたことでしょう。

     しかし、そのように大切な神の恵みのあかしはどこにあるのでしょう。それは、言うまでもなく、キリストの十字架であります。それを、もっと今のパウロに近い言い方をすれば、人は律法によって救われるのではなくて、キリストの救いによる。ここでのパウロの問題は、人が律法によって義とされるかどうか、ということでした。パウロの当面の相手は、ペトロを代表とするユダヤ系の人で、何度もユダヤ教の立場から、キリストの十字架によって義とされることを問題にしようとしました。

     今わたしが生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の子の真実によるのです。わたしは今生きている。その根拠は、ただひたすらにキリストの真実です。その時、律法主義になるでしょうか。キリストの死を無駄にする罪から立ち返る道は、まさに今この時、受難節において待ち伏せをしておられる神の恵みの中に立ち帰ることができるかどうかにかかってくるのです。わたしたちはキリストを信じ、心から信頼したいと思います。お祈りをいたします。