カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 真実の歩みの始まり

    2024年3月10日
    詩編2:1~12、ヨハネによる福音書12:1~11
    関 伸子牧師

     ヨハネによる福音書第12章において、いよいよ主イエスの公的宣言は大詰めを迎えます。今日の「ベタニアで香油を注がれる」と小見出しのついた箇所とよく似た物語がマタイにもマルコにも出てきます。おそらくもとは同じ話であったと思われますが、マタイやマルコが主イエスの受難物語の最初の出来事として記しているのに対してヨハネはそれが始まる前エルサレムへ入る直前の出来事となっています。

     「過越祭の六日前に」とまず切り出して、ヨハネ福音書の主要主題である「イエスの時」が迫っていることを読者に告げ、そして「イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた」と、ベタニアの地名とどのような場所かを記述していくことによって、迫り来る「イエスの死」の問題に焦点をあてていきます。
     この少し前の場面(11:56)で、ユダヤ人とイエスの居場所のズレがありました。今日の箇所では「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕していた」(2節)と、給仕をしているマルタが同じようにイエスとのズレを演じます。そして、この節では「死と復活」を体験したラザロがイエスと共に食事の席についていたことにより、ラザロが確かに復活して生きていることを示しています。死人は何も食べないからです。ラザロはマルタとは対照的に描かれています。

     ここに、ベタニアでの香油注ぎの物語のヒロインであるマリアが登場します。晩餐の準備も整い、人々が席に着いていた時、マリアが入って来てイエスのそばに立ち、非常に高価で純粋なナルドの香油一リトラをイエスの頭と足に注ぎ、自分の髪の毛でぬぐいました。「一リトラ」は約326グラムで、さらに5節のユダの言葉によれば三百デナリオン(一人約三百日分の生活費)に相当する額の量です。

     当時は女性が人前で髪をほどくことは恥ずべきこととされていましたが、マリアがイエスの足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪でぬぐい取ったことは、イエスに対して最大の敬意を払っていることを意味しています。また、マリアの行為には、自分の教会ラザロを生き返らせてくれたイエスに対する感謝も込められていたでしょう。家の中は香油の香りでいっぱいになりました。ところがこれを見ていた弟子の一人イスカリオテのユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)とマリアの行為を非難して言いました。ユダの言葉は正論です。しかし、ユダの発言としていますが、他の弟子たち全員も同じ思いであったと思われます。弟子たちは、「主イエスの模範に習ったらどうだね」と言いたかったでしょう。イエスはいつも貧しい人々に心を向け、ただ同情するだけでなく、いつも具体的な助けの手を差し伸べておられたからです。そのような日頃の主イエスの姿勢に照らしても、マリアの香油注ぎは人々の目に納得しがたい愚かな浪費と映ったのです。

     しかし、マリアが高価なナルドの香油をイエスの足に塗ったのは、「あなたは、私たちのために命を捨てることのおできになる方です」という信仰告白なのです。だから、イスカリオテのユダがもったいないことをすると言ったのに対して、主イエスは「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ」(7節)と言われたのです。主はマリアの深い思いとご自分の歩む道を分かっていました。
     打算のない愛はすべてのものをささげて惜しむことがありません。それも残り物や不要になったものではなく、最善の物をささげるのです。愛に裏打ちされた献身のわざ。主は愛によって働く信仰を求めておられるのです。マリアの香油注ぎはこのことのあかしとして現代まで語り伝えられています。

     この続きを読むと、ラザロの復活のニュースは過越祭に集まった巡礼者たちにも知れ渡っていました。彼らはエルサレムから歩いて30分ほどの道のりをベタニアにやって来ました。話題の人物イエスとラザロを見るためでした。当然のことながら都の宗教家たちは色めき立ちました。「祭司長たちはラザロをも殺そうとたくらんだ」(10節)。祭司長たちはサドカイ派に属し、復活の教理を否定していた。ラザロはその復活を例証する目ざわりな存在なので消しにかかったとも考えられます。しかし、彼らを葬ろうとした最大の理由は、ラザロの復活のゆえに「多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである」(11節)とこの物語の最後に記されています。

     マリアのようにこたえていくことが私たちの信仰生活です。私たちは自分を振り返ってみて、私のために死んでくださったイエスに対して、ふさわしい歩みをしているでしょうか。人は、そんなにしなくてもいいと言うかもしれません。信仰は自分あっての信仰で、信仰のために自分が苦しんだり、貧しくなったりしていくのはおかしいというのが、イスカリオテのユダの論法です。しかし、私たち信じる者たちにとっては、イエスの命が注がれたのですから、何をもってこたえたとしても、十分な答えにはならないのです。マリアも思ってもみなかった神の行為がここに自分が差し出した香油から始まっていると言ってもよいかと思います。そこで主イエスは、ここでこそ、あなたがたの真実の歩みが始まるのだとおっしゃってくださるのではないかと私は思います。自分には何もできないと思われる方もあるのではないでしょうか。しかし、教会の中に、そして礼拝の中におられるということ、そこにすでに大きな意味があります。それだけで証しになる。まわりの人を励ます力がある。ここから真実な歩みを始めたいと思います。お祈りをいたします。