カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    良い実を結ぶ

    2025年7月27日
    エレミヤ7:1~7、使徒言行録19:13~20
    関 伸子_牧師

     パウロのエフェソ伝道は、説教とともに「数々の目覚ましい奇跡」(11節)をも伴いました。ところがここに、13節には「ユダヤ人」の「祈禱師」という、結びつくはずのない言葉が結びついてあらわれています。当時の人々は誰でも、病気や不安、ことに精神的な病は、悪霊がやってきてその人の中に住みつくために起こったと信じていました。だから悪魔祓いは公認された職業でした。諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師たちは、その奇蹟も魔術的なもののひとつと映りました。日本にも、いまだに祈祷師等による厄払いといったことが行われていますが、この当時のアジアでもエフェソを中心に似たようなことが祈祷師たちによって広く試みられていました。彼らは呪文を唱えて悪霊を追い出していました。それで、彼らはパウロの力にあやかろうとして、悪霊に向かって「パウロの宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ってみたのです。そのようにして悪霊を追い出そうとしました。病人は悪霊につかれている、と本気で信じていました。すべての祈禱師がまやかしであるわけではなかったのです。あるものはまぎれもなく効力があると信じられていました。人間の心は不思議なもので、このような間違った信仰や迷信でさえも、神の恵みの中で実を結びます。

     17節以下にはスケワの子たちの事件が人々に与えた影響が記されています。まず、「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆、恐れを抱き、主イエスの名を崇めるようになった」(17節)。聖なるものに対する畏敬の思いにみたされたのです。ここに信仰に至る道があります。

     主イエスの名前が広がると、その主イエスに対する信仰を抱く人々も増えました。「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行を告白し、打ち明けた」(18節)。この告白した内容がどのようなものであったから明らかではありません。しかし、おそらく異教的な行為や祈禱師の魔術的なことから抜けきれないでいたという内容であったと思われます。これらの人々は、迷信に支配されたエフェソの町で、自分たちに利益をもたらしてきた本や呪いの本を喜んで燃やしましたが、これはなによりもその変化の真実性をはっきり示しています。わたしたちの多くは罪を憎みながら、罪から離れようとしない場合があまりにも多いのではないでしょうか。

     エレミヤ書第7章5節、6節は、主を礼拝する人々が自分たちの「道と行いを正し、お互いに間に正義を行」うべきことを要求しています。神の言葉に従って、自分たちの生き方を根本的に新たなものへと変えられるかどうかが、私たちに問われていると言えるでしょう。信仰は、心の中の信心ということにとどまらず、自分自身の生き方を変える決断をなすことでもあります。

     「また、魔術を行っていた多くの物も、その書物を持ってきて、皆の前で焼き捨てた」(19節)。「焼き捨てる」という言葉は強い印象を与えます。信仰に入ったとは言っても、今日のように聖書を手にすることができず、また教育される機関もなかったので、まだまだ異教的なものとまことの神のものとのけじめのつかない生活を引きずっていたのでしょう。焼き捨てた書物を換算すると、当時の銀貨5万枚という膨大な金額に相当しました。現在なら3珀万円は優に超えるでしょう。

     実際、私たちは自分自身の過去を焼き捨てたいと思うことがあります。自分がこれまでに犯した過ち、自分の中のどうしようもない弱さ、そして自分自身が置かれている状況・・・・・・。神以外に頼りにしているもの、また、聖書を読み、祈ることが妨げられるほどに自分を引き付けている隠れた楽しみがありはしないでしょうか。テレビ番組なども注意が必要です。もし、神の光が私たちを照らし、悔い改めるべきもの、捨てるべきものが何であるかを示されたら、すなおに捨て去るようにしたいと思います。

     しかし、持ち物を捨てたとしても、そう簡単に変わることのできない自分自身がいることを私たちはいつも思い知らされます。私たちは多くの場合、その現実を忘れようとしているか、あるいは、そこから逃げようとしているに過ぎないのです。ですから、私たちは、自分の無力さや過去の過ちにこだわり続けるのではなく、日々新たにしてくださるキリストと共に前を向いて歩んでいきたいと思います。

     「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」(20節)。そこには、プリスキラや朗やパウロのような指導者の入念な教えや指導がありました。この信仰は、回心や驚くべき力についてだけのものではありません。それは復活したキリストとの関係への回心であり、そのキリストに由来する力です。

     聖霊を受けた共同体を建設して、そこに生きているパウロは、悪霊と戦うことを当然のこととしていました。これはわたしたちの場合も同じです。

     「一体お前たちは何ものだ」、こう問われたら、伝道をする者、また聖霊によって生かされている者は、自分たちが何者であるかを知っているのです。パウロはきちんと答えることができたでしょう。ヨハネの洗礼に留まらず、主イエスの名によって洗礼を受けた者が、「お前たちは何者だ」と問われた返事ができたでしょう。「私は主イエスの者だ」「私は聖霊によって捕らえられている者だ」「神の言葉を語る者だ」「神によって使命を与えられた物だ」と名乗ることができます。ですから、ここで大切なことは、17節に「主イエスの名を崇めるようになった」ということです。パウロの伝道は、主の言葉の前進でした。わたしたちも、主の言葉が生きて働き、主の民の形成と証しが力強くなされることを覚えていたいと思います。祈りをたします。