当教会は、神の家族がここにある!と実感できるアットホームな教会です。当教会のホームページもぜひご覧ください。
復活した主イエスにお会いして
2025年4月20日
イザヤ60:17-22、ヨハネ20:1-20
関 伸子_牧師
Happy Easter!週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアは夜明け前に一人で墓に生きました。墓に向かったマリアは、墓から石が取りのけてあるのを見て、ペトロともう一人の弟子のところに走って行き、「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、わかりません」と告げます。それを聞いたペトロともう一人の弟子も墓に向かって走り、先に着いた弟子は中を覗きこんで、亜麻布が置いてあるのを見ます。
イエスは十字架にかけられて死にましたが、マリアと弟子たちは、そのイエスとの関わりを終わらせようとは考えていません。ただし、その関わりは未来に開かれたものではなく、過去にこだわる後ろ向きのものです。
墓に入ったペトロは中の状態を詳細に見ています。6節の「見た」は「詳細に観察する」ということを表す語です。ちなみに1節から8節には「見る」が4回も現れます。1節と5節はブレポー、6節の見るはテオレオー、8節の見るはエイドン。プレポーはごく普通に「身体的に見る」であり、テオレオーは「時間をかけてじっくりと観察する」ことであり、エイドンは、「心の目で真理を洞察する」ことです。8節のエイドンが「心の目で見る」を意味するなら、それが「信じる」と一緒に使われるのもごく自然です。
ペトロの後にもう一人の弟子も入って、見ます。この8節の「見た」には目的語がありません。弟子が見たものは事物や状況ではなく、出来事が指し示す意味です。このように目的語を述べないことによって「見る」次元が精神的なものへと高められたことを示したのかもしれません。
墓に入ったもう一人の弟子とは「イエスが愛しておられた」(2節)その人でした。ペトロが見たのは空っぽの墓でした。しかし、このもう一人の弟子は、このイエス不在の中に新しい存在、つまり、死に打ち勝たれ、私たちにいのちをくださる主の存在を知覚することができたのです。しかし、愛弟子とペトロは信仰と不信仰という対立として描かれてはおらず、ペトロも信仰が前提されているでしょう。私たちも、信仰をもっていると言っても、どこかで疑いをもっているのではないでしょうか。多かれ少なかれ「疑う」ということがあるから、「信じる」と言うのです。しかし、そうした中、私たちの疑いをはるかに超えたところで、大いなる神の物語がすでに始まっている。ここに見ないで信じる信仰があかしされています。
空の墓のニュースを弟子たちに伝えたマリアは再び墓にやって来ました。二人の弟子が墓を去っても、マリアはなおそこにとどまりました。帰れなかったのです。イエスとのかかわりをなくしては生きていけないマリアは声を上げて泣きました。泣きながら墓の中をのぞき込むと、白い衣を着た二人の天使が、一人は頭の方に、一人は葦の方に座っているのが見えました。天使がなぜ泣くのかと尋ねたので、マリアはイエスの遺体がなくなっていることを告げました。そう言って後ろを振り向くと、そこにイエスが立っておられました。しかしマリアには「それがイエスだとは分からなかった」(14節)。
なんとも不思議なことではないでしょうか。当人を前にしてマリアにはそれが誰かわからなかったのです。復活を理解しないマリアはイエス御自身に向かって訴えます。「あなたがあの方を運びさったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります」(15節)。マリアの心を占めているのは主のご遺体だったのです。しかし、主は復活されました!
イエスはマリアに、「なぜ泣いているのですか」と問われました。天使もイエスも、マリアが泣いている理由は百も承知のはずです。それなのになぜ問われたのでしょう。そう問うことによって、もう泣かないでよい、もう泣く必要はなくなったのですよ、目を開いて私を見なさい、と語りかけられたのではないでしょうか。
主が「マリア」と呼びかけ、2度目にマリアが振り向いた時、マリアの目が開かれます。そこにイエス・キリストが生きて立っているのを見るのです。マリアは振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ(師よ)」と驚きと喜びの交錯した声をあげました。そして思わずイエスにすがりつきました。マリアの目には喜びの涙があふれました。しかしイエスはマリアを制止させます。「私に触れてはならない。まだ父のもとへ上っていないのだから。私のきょうだいたちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』と。」まず、マリアが弟子たちのところに行ってイエスの復活を報告するためでした。すがりついて喜ぶマリアはイエスの復活の事実を自分のものとして独占してはならないのです。この喜びの知らせを他の者にも告げなさい、と言われたのです。「私はまだ神のもとに上っていないからです」というイエスの言葉がその理由を示しています。マリアが目に見えるイエスに固執することは、イエスの昇天を妨げ、聖霊が与えられるという約束を阻止することになります。これからは、今までと違った形でイエスとかかわっていかなければならない。マリアはそのことを学ぶ必要がありました。
マリアはイエスのことばに従って弟子たちのもとに帰り、この日以来、次のように語り告げる人となりました。「私は主を見ました!」マリアまた走って行ったかもしれません。ここに、既に、教会の歩みが先取りされています。イースターのこの日、私たちも代々の聖徒と共に主の復活を宣言し、そして祝いましょう。「主は復活された!」私たちは主のもの、主は限りない恵みと慈しみをもってすべてのものを導かれます。お祈りをいたします。