カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    神の言葉を無にせず

    2025年12月7日
    エレミヤ36:1~10、マルコ7:1~13
    関 伸子_牧師

     教会暦に従うと、既に今待降節という季節に入っています。主イエス・キリストのご降誕を前に、み言葉に照らしながら、自らの真実の姿を、きちっと見て、主イエスのご降誕を待ち望む時です。

     先ほどお読みしましたマルコによる福音書第7章1節から13節の中で8節、9節、13節に「あなたがたは神の掟を捨てて」、神の掟をないがしろにした」、「神の言葉を無にしている」とあります。「捨てた」、「ないがしろにした」、「無にしている」。訳が少しずつ違うのは、原文のギリシア語が違うからです。どういうふうに捨てたか。神の言葉を捨てているということは、あなたがたの生活の中で神が定められたことをないがしろにしている、ということです。「神の言葉を無にする」という13節の言葉は、それよりももう少しきつい言葉だということもできます。法というのは権威があります。その法の権威が、神の権威に根差す法を押し除けてしまっている。それが主イエスのみ言葉の中に浮かびあがる人間の現実なのです。主イエスというお方が、なぜこの時地上に来られたか、何をしに来られたか。人を愛するためでした。人の悩みをご自身の悩みとして受け止めて、癒してくださるためでした。

     主イエスがなぜここで、このようなことをお語りになるようになったのでしょうか。それにはきっかけがありました。ファリサイ派の人々と律法学者の何人かがエルサレムから派遣されて来たところからこの問答は始まります。エルサレムの宗教的指導者たちの耳にガリラヤでイエスという男が、なかなか評判高いようだけれども、いったいどんなことをやっているのか、正しいことをやっているのかどうか、ちゃんと観察しなければならない。エルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者たちが見とがめたのは、イエスの弟子のある者たちの生活態度、すなわち汚れた手のまま食事をしていることでした。

     ここでファリサイ派の人々が、弟子たちが手を洗わないで食事をするのをとがめたのは、決して今日の衛生上のことではありません。昔からの言い伝えで、神の律法を犯すと考えたのです。市場から帰ると、どこでどんな(宗教的、祭儀的)汚れを受けるか分からないと考えたのです。ですから市場から帰るとからだ中洗いました。主イエスは、このような祭儀的な汚れと言ったことは認めませんでした。日本でもよく葬式から帰った時、死者の汚れから清めるために、塩をまくことをします。それに類することです。科学的ものの考え方をするなら、ばかばかしいと思われることが、宗教的にまじめに考えられていたのです。主はこのような祭儀的な掟を無意味なものとしました。

     主イエスは預言者イザヤの言葉(29:13,70人訳)をもって彼らに答えました。「偽善者」の意味はこのイザヤの言葉から理解されなければなりません。イザヤの引用の中でわたしたちの箇所全体の鍵語の一つである「心」が出てくることに注意しておきたいと思います。この「心」とは心の深み、内面性、人の思いの源泉、人格の中枢のことです。「その心が私から遠く離れている」と、預言者の言葉によってイエスはファリサイ派と律法学者たちの実態をあからさまに指摘しました。

     どんなにきれいな手をしていても、それは心まできよめません。外からくるものは、人間の内側まで影響を与えないのです。わたしたちが気をつけなくてはいけないのは、自分の内から出てくるものです。日本でも、「口は禍いのもと」と言います。毎日わたしたちは、どれほどの悪口を言い、ののしりを語ることでしょう。それらは人を傷つけ、人と人との間をまずくします。またわたしたちは「コルバン」式の言い訳で、正しいことをせずに、ごまかすことがいかに多いでしょう。ファリサイ派の人々の問題は、よその問題、また昔の問題ではありません。実に今日、わたしたち信仰者の問題でもあります。

     神の掟がいつの間にか人間の利益や都合のために、その実質を奪われ、形骸化していきます。そして、人間の言い伝えが神の戒めにとってかわり、この場合も父や母を敬えという神の戒めが、形式的なコルバンの行為によって実質的に否定されてしまう。こうして、宗教は人間の都合のよいようにすりかえられ、無力なものとなってしまうのです。

     わたしたちは、こういう主イエスのみ言葉を読んでいると、だんだん心が重くなります。顔が上げられなくなります。審かれていることを知ります。しかし、そのみ言葉に打たれて、顔を上げられないという経験をすることは、わたしたちにとって、とても大切なことです。マルコによる福音書は、繰り返し語ります。主イエスが何のためにこられたか。人を愛するため、神の言葉を回復するためでした。そのことを、主が、ご自身で説明しておられます。今もう一度そのことを明らかにされました。そして、だからこそ、十字架につくために来られたのです。そのためだけに来られたのです。そのことをわたしたちは深い謙遜と、また主イエスに対する心からの信仰をもって受け止め直すことが今求められています。

     キリスト者こそ迷信や偏見や差別から自由でなければなりません。わたしたちを縛っているものはもはやありません。わたしたちは主イエスの十字架のあがないによって罪から解放され、自由に神に仕えることができるのです。「私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。私はお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36:26)。この新しい心をわたしたちは主イエスによって与えられました。この心は自由の心、暖かい心です。この自由と愛の心をもって主イエスのご降誕を待ち望む日々を過ごしたいと思います。お祈りをいたします。