カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 東京都小金井市にある、カンバーランド長老キリスト教会東小金井教会のページです。毎週日曜日の礼拝説教の要旨をご紹介しています。このページでは、最新の説教を掲載しています。以前の説教は、メニューの「説教一覧」からご覧になれます。
    当教会は、神の家族がここにある!と実感できるアットホームな教会です。当教会のホームページもぜひご覧ください。

    驚きを知る

    2026年1月25日
    申命記30:11-15、マルコ1:21-28
    関 伸子_牧師

     「これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く」(27節b)。これは、主イエスがガリラヤのカフェルナウムという町にあるユダヤ教の会堂で伝道を始められた時に、人々の口から出た最初の驚きと反応を示す言葉です。「権威ある新しい教え」、これが、主イエスが人々に与えた第一印象だったのです。

     しかし、主イエスが何を語られたのかは、全く記されていません。いったい、その教えとはどのような内容だったのでしょうか。また、なぜ権威ある新しい教えとして受け止められたのでしょうか。少し前の第1章15節には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、主イエスがガリラヤ伝道開始にあたって宣言された有名な言葉があります。「時は満ち」とは、歴史の終わりの日・終末の時が来るという意味で、ユダヤ人たちは、その時にこそ神が神として姿を顕わし、新天新地を創造し、生ける神の支配が実現すると信じていたのですが、主イエスは、もう今、ここに、その時が来ており、神が臨在しておられ、人々が、その神との生ける交わりの中に自らを見出すことができるのだ、そのためには神の御前に立つのにふさわしくない自分自身の姿を悔い改めなさい、と招いておられます。

     ここで注意したいのは、汚れた霊に取りつかれた男から悪霊を追放するという主イエスの目覚ましいわざを見ているのに、人々は決して「権威ある新しいわざだ」とは言っていないことです。「権威ある新しい教えだ」と言っているのです。奇跡と呼ばれるような癒しのわざが次々となされ、主イエスの活動に含まれてはいますが、その中心はあくまでもイエスの語られた神の国の福音にあり、民衆の心はまさしく、イエスの「教え」に向けられていたのです。

     「するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。招待は分かっている。神の聖者だ。』イエスが、『黙れ、この人から出て行け』とお叱りになられると、汚れた霊はその男に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行った」(23~26節)。「汚れた霊」は神から離れさせる力のことです。その力はすこぶる強いもので、人間を奴隷状態に閉じ込めています。この人は悪霊に憑かれて苦しみ、自分が嫌になり、孤独になり、自分で自分を救おうとして、鎮めようのない不満に覆われているのでしょう。「汚れた霊は人間の弱いところにつけ込んで、不信仰や狂気に駆り立て、人間を崩壊させます。

     しかしこの汚れた霊はイエスの正体を知っています。そうです。荒れ野の誘惑において、イエスはすべてのものをご自分のもとに集め、支配し、制服するという仕方で悪魔を退けました。それが主イエスの正体です。神に祝福された姿を取り戻す力、神の聖者です。悪魔追放、悪魔払い。もう何年も前に、「エクソシスト」という映画が評判になったことがあります。エクソシストというのは、もともとは教会用語で、教会の牧師たちの務めの中に〈悪魔払い〉という務めがあり、実際にそういう名前の職務があったのです。牧師がおり、伝道師がおり、悪魔払いの務めの人がいた。あるいはまた、教会員になりたい、洗礼を受けたいという方があると、その洗礼入会式のときに、悪魔払いということをしました。悪魔払いということを教会は大事にしましたが、悪魔とか、悪霊についてくどくど論じたり、それについて書く書物が生まれてきたわけではありません。むしろ、現代の日本は、悪霊まで商売の種にする人がたくさんいて、病気になったりすると先祖の霊だとか、なになにの霊だとか、さまざまな霊の名前を持ち出して脅かす。脅かして、解放してやるから金をよこせ、と儲ける。その虜になる人がすいぶんたくさんいます。これは恐ろしいことです。わたしたちはそういうものから全く無縁になる。これはひとつの戦いです。

     イエスは命じます。「黙れ。この人から出て行け」。この言葉で汚れた霊はその人から出ていきました。主イエスの説教を聴いた人々は「非常に驚いた」。そのとき、会堂にいた人の多くは、ごく普通の庶民であったと思われますが、彼らには本物がわかったのです。驚きの理由を「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」とマルコは記します。この驚きはイエスを通して神と出会った者の驚きであり、証言でもあります。

     ノルウェーの画家ムンクの「叫び」を思い起こします。ムンクはあの絵を自分の体験から描いたということです。「突然、空が血の赤い色に変わった。・・・・・・友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え戦(おのの)いていた。そして私は、自然を貫く、果てしない叫びを聴いた」。あの奇妙な顔の男は、友人たちが気づかない叫びを聴いて震え、どうしてよいかわからず耳を塞いだのです。

     叫びは今も続いています。イエスは叫びを聴き取ってくださいます。そして、叫びのうちに苦しんでいる人間がいるのを見てくださる。そして人を縛って苦しめる諸々の権力を無力化し、神の権威をもって人間性を取り戻させてくださるのです。

     「その時、見えない人の目は開けられ 聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は死かのように跳びはね 口の利けない人の舌は歓声を上げる。」(イザヤ35:5-6)。まさにイザヤが待ち望んでいた救いの日・メシア到来の日が主イエスにおいて始まったのです。それは私たちの賛美の声でもあります。「あなたこそ私の罪の贖い主・神の子イエス・キリストです」と告白することこそ、この新しい権威の担い手に告白する私たちの信仰の言い表しとして、今朝の礼拝にふさわしいものです。また、この「権威ある新しい教え」を宣べ伝えることが私たちに委ねられています。祈ります。