カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    イエスの招きの声を聞く

    2025年3月30日
    出エジプト記24:3-11、マタイによる福音書17:1-13
    関 伸子牧師

     マタイによる福音書第17章1節以下は、「高い山」の上で、主の姿が変容したこと、モーセとエリヤがそこに現れて語り合ったこと、神御自身の声が響き渡ったことを記しています。どれもこれも驚くべき出来事、聖なる出来事です。そうした輝かしい栄光に満ちた出来事が「高い山」の上で起こったのです。しかし、この出来事が主イエスの生涯における頂点となったわけでもなければ、それが主イエスの働きの結末だったわけでもありません。それは、真の頂点であり、また結末である、主イエスのご受難と復活、そして神の御心の成就に向けて進み行く旅の途上の出来事であり、通過点におけるエピソードのひとつにすぎなかったのです。その日、主が登った「高い山」の上から、はたしてエルサレムの町が見渡せたのかどうか、私たちは知りません。しかし、その日、主の瞳の奥には、エルサレムの城門、神殿、ゲッセマネの園、そしてゴルゴダの丘が、たしかに映し出されていたでしょう。

     主イエスのお姿が三人の弟子の目の前で変わり、その顔が太陽のように輝き、モーセやエリヤと語り合うのを目にしたとき、ペトロは「主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、ここに幕屋を三つ建てましょう」と申し出ます。主イエスが受難の予告をされた時には、十字架の苦難の暗い面に脅え、「主よ、とんでもないことです」と言ったペトロは、今輝かしいイエスの御姿を見て、この素晴らしさに見とれ、これをいつまでもとどめておきたいと願いました。ここでもペトロは、来るべき栄光の主の意味が分からず、今度は、この明るさに手放しでうっとりしてしまったのです。しかし、この提案は取り上げられることなく、かえって彼らを覆った雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という指示を与えられました。ここでの情景すべてを、神自身が解釈します。その神は、光輝く力をもって雲の中にいて、3人の天的な形姿を覆っています。かつて神が、昼は雲の柱、夜は火の柱によってイスラエルの民をエジプトから導き出したように、光り輝く雲は、その場に乳なる神が共にいることを示しています。神は光輝く雲の中から声として語り、イエスが神の子であることを紹介します。

     マタイはここで洗礼の声を繰り返します。マタイにとって物語の中心である天の声は、形式的には、神の子とは誰であるかを説明します。内容的にそのことは大きな意味を持っています。物語の中では、神の声の「これに聞け」はいわば山の上から下へと示された神の人差し指なのです。下、つまり日常の水準では、神の子が彼の弟子たちに神の意志と御国の福音とを告げます。イエスが山上での変貌の後、直ちに弟子たちに人の子の苦難について語ることになることも、マタイにとって重要なのです。それは、この三人の弟子たちが、山上でのこの頂点の後に、次回は再びゲッセマネの場面で、それゆえイエスの物語の絶対的な底辺で(26:37)、一緒に登場するということと同様に重要なのです。

     ペトロが仮小屋を建設しようとしたのは、日常を超えた永遠の世界に触れ、その幸いを手元にとどめたからだと思われます。しかし、せっかくの提案も顧みられませんでした。 私たちが自分の人生を生きるとき、何をするか企画を立て、それを実行する手立てを考え、それを実行に移します。ことがうまく運べば満足し、生きがいを覚えます。しかし、たとえ成功しても、このような生き方そのものに空しさを感じた人もいます。

     この世にあって、神の声を聞くということは、決して楽しいことではありません。弟子たちは、これを聞いて恐れ、顔を地に伏せたとあります。地上の生活をしながら、神の声を聞くことは恐ろしいことでさえあるのです。歴史の中で、時として誰かが神の声を聞き、「高い山」に上る使命を負わされることがあります。その人は山に登り、その上から「約束の地」を眺め、皆にそれを告げ、進むべき方向を指し示し、人々を励ます役割を担います。1968年4月3日、凶弾に倒れる前夜、最後の説教の中でマルティン・ルーサー・キング牧師はこう語りました。「神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地を見た。私は、みなさんと一緒にその地に達することができないかもしれない。しかし今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちはひとつの民として、その約束の地に至ることができるということである」主イエスもキング牧師も、自分たちの群れが目的地からは、まだ、はるかに遠くあることを知っており、しかし、また同時に、自分たちがそこに近づきつつあることも知っていました。彼らはいずれも、自分たちが「旅する神の民」であることを知っていたのです。その長い旅の途上で、神はひととき、やがて到達するであろう「約束の地」、神の国のしるしを垣間見せてくださいました。

     最後に山に登ることと下ることを考えたいと思います。山に登るということは、地上的な思い煩いや、地上的な望みに分かれを告げることを含んでいます。山とは「知恵の山」です。そして、主イエスが山へ登られるのは、山から下りるためです。「一般的に、神のためにというのは、正しくない表現である。・・・・・・神のために隣人の所へおもむくのではなく、神に迫られて、隣人の方へ向かうこと。射手に放たれた矢が的に向かうように」(シモーヌ・ヴェイユ、『重力と恩寵』)。山から下りるイエスの道行きの中にこの真実をみます。

     主イエスもキング牧師も殺されました。しかし、そのような出来事を味わいながら、なおも神の民は歩み続けてきました。主イエスに従って歩み続けることが私たちの希望なのです。祈ります。