「今」を生きる
2017年11月19日
イザヤ書53:1-6、12、ルカ22:35-38
荒瀬 正彦牧師
私たちはいろいろな意味で弱さを抱えています。またキリスト者として信仰的な弱さの問題を抱えています。「主よ、私の弱さからあなたに背いてしまいました」、そんな言葉を何度も心の中で呟く私たちです。信仰的な弱さには大まかに言って二通りあります。
一つは、信じようとしても信じ切れない弱さ。心のどこかで信じてはいるのだが、自分の弱さから信じ切れない、神様に委ね切れない。そうした弱さ。
もう一つは、信じてはいるが、その信仰が一筋にイエス様の方を向いていない。そのために、何かあるとすぐ動揺してしまう弱さ。どこかで神様ではなく自分の方を向いている。
神様の側に両足を掛けてしまうことに何か不安を感じている。片足は自分の側に置いておきたい。そうすれば「さあ、どっちだ」と選択を迫られた時、どちらかに逃げ道がある。そうした小狡い弱さ。
ある時イエス様は弟子たちを宣教の旅に遣わしました(ルカ10章)。その時イエス様は「財布も袋も靴も杖も持って行くな」とお命じになりました。旅に必要な、日々の生活に必要なものを何も持たずに出掛けるのです。これは辛く不安な旅となります。しかし弟子たちは旅から帰って口々に言いました。「何も不足した物はありませんでした。必要な物はすべて備えられました」、と。
マタイ6章で主は言われます。「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆、加えて与えられる」。この言葉を信じて歩む者だけが「困ったことは何もありませんでした」と言い得るのです。弟子たちは旅の中で困ったこと、不安なこと、辛いことも沢山あったでしょう。でも振り返って、信じて歩む旅の中で、すべて備えられていたことを知ったのです。
しかし旅に必要な物を持たなかった程度の困難や苦しみ不安は、私たちの貧しい生活の中ではままあることでしょう。想定内のものでしょう。ところが本当の暗黒の中に置かれた時、全く光が見えない時はどうでしょうか。人に見捨てられ、神様からも見捨てられたと思えるような時はどうでしょうか。正にそのような時に、私たちは自分の弱さに気付かされるのです。そのような時こそ神様に頼るべき時なのです。だと言うのに一番肝心な時に主に頼らず、支えの手を自分で捜そうとする。一本のワラに頼ってしまう。その誘惑に負けてしまう。
ルカ22章36節で主は言われます「しかし今は、財布も袋も持って行きなさい。剣の無い者は服を売ってそれを買いなさい」。――本当の暗闇があなたがたを襲うだろう。神を見失ってしまうような時が来るだろう。人々は神の名においてイエスを裁く。神の名において神を裁く。そして信仰の一片すら消え失せ、神の御心すら見えなくなってしまう。人が信仰を失った時、心の中に荒涼たる砂漠が広がる。そのとき人は財布や袋にしがみついてしまいます。最低の生活基盤となるようなものを持っていないと、あなたがたは不安に押し潰されてしまうだろう。死の恐怖に耐え切れないかも知れない。だから今は――。
「今」はさっきまでとは違うのです。今日は昨日の続きではない。私たちの弱さは、今日が昨日の続き、明日は今日の繰り返し、という誤解に立っている所にあります。そうではなく、全く新しい見知らぬ時の始まりが「今」なのです。「今」は正に未知の領域であり、その意味で「暗黒」の領域です。「だから服を売ってでも剣を持ちなさい」と、主は言われるのです。
剣とは武器のことですが、エフェソの信徒への手紙ではこう書かれています。
「邪悪な日によく抵抗し、しっかり立つことが出来るように神の武具を身に着けなさい。――救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」。(エフェソ6章)
剣とは即ち神の言葉です。「今と言う時、御言葉の剣を持ちなさい」とイエス様は言われるのです。
私たちは無事平穏な時にはイエス様の言葉に身を委ねることが出来ます。しかし、危急存亡の苦難の淵に立たされたときは、思わず自分の手で自分の身を守るという自己保身の行動に出てしまいます。イエス様を知っていながら、福音の言葉を聴いたことがありながら、そこから離れてしまう。そのような私たちの愚かさ、弱さを知った上で、イエス様はそれを我が身に引き受けて下さるのです。
主は十字架の愛をもって、この弱い私たちに呼び掛けられます。「しかし今は、福音の剣を用意しなさい。今をどう生きるか。絶望しか生むことのない人間の知恵や力や財布に頼るのではなく、永遠の命に至る御言葉を手に入れなさい。それが今の生き方なのです」。「今」という時の重さ、厳しさ、そして孤独を前にした時、思わずこの世の剣を手にしたくなる私たちですが、その弱さを主に委ねて、主の強さに頼り切って、主イエスを信じ、ただ御言葉に信頼して「今」という時を生き抜いて行きたいと思います。