陶器師の計画
2017年10月29日
創世記21:9-21、ローマ9:19-28
めぐみ教会 荒瀬 牧彦 牧師
「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐みの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」
怒りの器であった者たち。それは、今まで神など知らぬ、神など知るかと荒くれていた人々です。怒りを盛られるはずだった器です。それを神は選んで、神の愛を注ぐ「憐れみのうつわ」としてくださいました。器は入れるものによってまったく違ったものになってくるのです。使い方次第で、表情が変わるのです。怒りの器が憐みの器になるというのは、なんと素晴らしいことでしょう。なのに、その愛の広さに、その忍耐の深さに、「認められない」と口答えするとは何者なのでしょう。
イスラエルという最初から選ばれ、準備されていた器が、選民意識に陥って傲慢になり、いざ神の愛(キリスト)を注ごうとしたのに、それを拒みました。すると神は異邦人という器にその恵みを注ぎ、怒りの器を憐れみの器としてくださいました。逆にイスラエルが怒りの器となってしまいました。でも、今度は異邦人が憐れみの器として用いられて、やがてイスラエルも立ち帰って、究極的には共に神の愛を注がれる器となる・・・パウロはそう語るのです。だから異邦人たちよ、あなたたちも誇ってはならない。奢るな。自分たちが偉いから救われたのではない。神の恵みによって、愛をうける器としてもらったのだ。
これはこう言い換えられます。クリスチャンよ、威張るな。あなたたちは、人格的に優れているから救われたのではない。本当は、「怒りの器」だったのです。しかし神がそれを「憐れみの器」としてくださいました。その神は、他の器をも選び、神の愛を注ごうとしておられます。なぜその神に口答えをしようというのか。
神さまの選びは不思議です。自分のことにおいてもそう思います。私が「自分は牧師になるよう神に召されているのではないのか」と思い始めた時、同時に、「それは自分の勝手な思い込みにすぎないのではないか」という思いも強く起こりました。自分のような生意気で傲慢な者が牧師をしている教会など、自分だったら行きたくないと思ったからです。だから召命をめぐってずっと悩み、どんどん落ち込んでいきました。そんなときに、聖書の言葉が胸をつきました。コリント一1章26節以下の言葉です。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。(中略)それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
この言葉は私に、神様からの通告として響きました。「もう、これ以上つべこべ言わなくてもよい。おまえの理屈はもうそれでよい。私には私の理由があって、私の計画があって、おまえを呼んでいるのだ。それで十分ではないか。」それで、納得したのです。「そうします。もうつべこべいうのはやめにします」と思ったのです。
自分の思いや判断が、聖書を通して神さまに示されることと食い違うことがあります。そういう時、簡単に聖書を却下してしまうのではなく、疑問を抱えつつも静まることを学びましょう。そして自分にこう問うのです。「誰が神のみこころにさからうことができようか。人よ、神に口答えするとはわたしは何者なのか」。
我々は小さくて、視野が狭くて、壮大な神の御計画の全貌をとらえることなどとてもできないのですが、しかし、そうであっても確かにわかることがあります。それは、陶器師である神さまは、あなたという器、私という器を「憐みの器」として、もっとも良く、もっとも美しく、もっとも豊かに用いたいと、願っておられるということです。これは間違いのないことなのです。