カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 成長させてくださった神

    2017年10月15日
    申命記8:2-5、コリント一3:1-9
    石塚 惠司牧師

     わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です、とパウロは「成長させてくださった」と過去形で記し、人々の心を過去に目を向けさせる。

     わたしの尊敬する人生の大先輩、宮城安子姉(宮城献神学生の祖母)がある日、私に「齢をとることは過ぎ去った年月の中に神様の恵みを数えることよ」と私に教えてくださった。この言葉は生涯忘れられない言葉の一つになった。

     商業の中心地、金、金、金と人々が叫ぶ町、人々が目先の生活に追われていた町、コリントでパウロは主に励まされ必死にイエス・キリストを語った。その中で生まれたのがコリント教会。パウロを導き、教会を導き、成長させてくださったのは神としか言えない。これはコリントの教会の人なら誰もが認めることだった。しかしいつしか人々はそのことを忘却の彼方に追いやってしまった。今教会の中には分裂、分派活動の嵐が吹いていた。ある人はパウロに、ある人はアポロに、ある人はケファに、ある人はキリストにと言っていた(コリント人への手紙第一1章11、12節)。人々は確かに教会に集まっていた。しかしばらばら状態だった。いつしか教会も巷と同じ有様になっていた。

     人々は指導者の人気投票にやっきになっていて、教会本来の大切なことを見失い、ただの普通の人になった。

     コリント教会が忘れていた第一は、コリント教会は指導者パウロ、アポロは同じ神に仕える者であること。パウロは、自分は教会に「仕える者」(しもべ)、給仕する人であると断言した。そしてアポロも神の前では同じ「仕える者」であり、神があなたがたに遣わした者であることを感謝しなさい、と教えた。コリント教会が忘れていた第二は、「自分が誰であるか」、「自分がすべきことは何か」であった。「あなたがたは神の畑、神の建物」、つまり「福音という種が落ちて、育つ大切な所」それがあなたがたであり、成長させてくださる神をほめたたえ、神に感謝することこそがあなたの務めだ、と教えた。パウロは分裂分派に揺れる教会に向かって、神の恵みを思い出せ!!と語った。

     過去を振り返ることは神を発見すること。18世紀から19世紀にかけて生きたドイツの文学者アウグスト・シュレーゲルは「歴史家は後ろ向きの予言者である」と語った。旧約聖書に登場する大預言者イザヤはイスラエルに歴史に目を向けさせた一人だった。「あなたたちが切り出されてきた元の岩 掘り出された岩穴に目を注げ。」(イザヤ書51章1節後半)と語っている。そして今日使徒パウロがコリントの教会の人々に向けて語っているのが「成長させてくださったのは神です」という過去の神の働きに目を向けよ、というメッセージである。

     私たちの目をコリントから今の私たちに移してみよう。今私が通っている成瀬教会の50周年記念誌には素敵な企画がある。それが「愛唱賛美、愛唱聖句」のページ。その聖句を調べてみた。3箇所を複数の方が挙げていた。①マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。②ローマ5:3,4「 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。③1コリント10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。お話を聞くと、どれも苦しみの中で与えられた聖句とのこと。「苦しい時のことを思い出すと、神様の声、聖書の言葉が慰めてくださったことを思い出しますよ」と教えてくださった。苦しみと同時に神様はみ言葉によって成瀬教会の友を慰めてくださっていた。これこそ神の素晴らしいお働きではないか。話を聞きながらこれこそ神様の恵みだ、と思った。

     パウロは決して健康な人ではなかった。しかしその弱さの中で彼が発見したのは神の恵みだった。彼は次のように言っている。「・・・わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。(コリントの信徒への手紙第二12章7節〜10節)

     人は辛いことに遭うと、それを考えないようにしよう、と思う。酒を飲み、何か楽しいことがないか、と探し始める。でもキリスト者にはこの世の人が知らないもう一つの生きる道がある。それは考え、悩み、神様のみ言葉を求め、祈る道。その道を私たちは今週も歩んでいこうではないか。たとえ今は苦しくても必ず救いを得ることが出来る道を生きたい。苦しみと同時に逃れる道をくださる人生を歩みたい。たとえ今苦しくても逃げない。苦しい中でも主のみ言葉を待ち続けたい。1年後、3年後、5年後、10年後に今を思い出すときっと苦しい思い出と共に神のみ言葉、神のみが与えてくださる平安というお金では買えない素晴らしい財産を手にいれることが出来るから。(祈)