カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 行き先も知らずに

    2018年2月25日
    創世記12:1-9
    国立のぞみ教会 唐澤健太牧師

     99歳の時に、アブラム(偉大な父)からアブラハム(多くの民の父)と改名したアブラハムは、イスラエル民族の父であり、「信仰の父」とも言われる重要な人物だ。創世記12章には、その最初の物語、アブラムの旅立ちの物語が記されている。

     前史がある。父親のテラがカルデアのウル(バビロン)を出発し、カナン地方を目指して出発する。ハランで父親はとどまり、そこで生涯を終える。

     アブラムが75歳の時、住み慣れたハランの地で「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしの示す地に行きなさい」(1節)と主から命じられた。主の命令はアブラムにとって厳しいことだったに違いない。新しい場所へ旅立つのは、どんな小さなことであって不安を覚えるものだ。いまのように移動先の情報がインターネットですぐに検索できるわけでもない。しかも、どこへ行くのかさえ分からない。住み慣れた場所にいれば、自分の守備範囲の中で安心して暮らすことができただろう。妻サライ、子どもたち、親戚の者たちは反対したかもしれない。しかし、主はそこから出て行くようにとアブラムに命じられたのである。

     それは「祝福の源」となるためであった。厳しい命令であるが、主は同時にアブラムに祝福を約束された。2、3節には5回も「祝福」という言葉が繰り返し使われている。しかし、アブラムは主の祝福が具体的には何を意味するのかは分からなかったであろう。「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(3節)と言われても、彼には自分の子どもはまだこの時いなかったのだ。アブラムは175歳で生涯を閉じる。75歳という年齢をどう考えるかは分からないが、私たちの感覚で言えば中年期から老年年期に入ることだったのかもしれない。いずれにせよ、子どもを授かるという年齢ではなかったようだ。
     アブラムは主の祝福が具体的にどのようなことなのかを理解したわけではなかった。しかし、彼は「主の言葉に従って旅だった」(4節)。アブラムが出発した理由はただ一つ、「主の言葉に従って」である。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(ヘブライ11:8)。アブラムが出発した理由は「主の言葉に従って」のみである。信仰とは、神の言葉、神の約束に信頼して、自分の生活をそれにかけることにほかならない。アブラムは、自分の進むべき道を道筋を具体的に見出し、知っていたわけではない。しかし、必ず神が導き、養い、祝福してくださるというその約束を信じて、出発したのである。

     行き先も分からずに出発する。この無鉄砲に思えるアブラムの行動が、信仰者の模範として聖書は私たちに告げているのである。私たちは自分の人生は自分の決断、自分の手中の中にあると勘違いしている。もちろん多くのことを私たちは計画し、漠然とそのように人生が方向付けられているかのように思う。しかし、私たちは将来について何一つ知らないものである。計画を立てて、それに向かって努力をしていくことはある。それでもなお私たちも「どこに行くのか知らずに」生きる旅人である。ちょっとしたことで突然新しい道を歩み出さなければならないことがある。私たちは向かっているか分かっているようであり、分かっていない者たちなのだ。

     青木優という盲人の牧師がいた。彼は医学部を卒業した後、国家試験を目前にしていた時に目の病気で失明をした。自分の将来がすべて消え去ってしまったような失意の中で、彼はひたすら「なぜ」と問い続けた。先祖の供養の仕方が問題だと言う者があれば、信じれば病気が治ると信心を説く者いた。その中で一人の牧師によって渡された本の中で、「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)との主イエスが生まれつき目の見えない盲人について語られた言葉に魂を揺さぶれ、「なぜ」の答えを与えられた。

     「わたしは目が見えなくなりました。これからどうして行きていったら良いかわかりません。しかし、あなたがわたしを愛してくださることを信じます。わたしのこれからの一切のことをあなたの御手にお委ねしますから、どうかわたしを導いてください」。彼はそのように祈り、神を信じた。その後彼は、肉体の医者から魂の医者となる道へ旅だった。
     私たちの人生は振り返って道筋を見ることができる。試練と思ったあの日々も、今日この日の祝福の基となっていると告白せざるを得ない不思議な導きを私たちも覚えるものだ。「あぁ、あの道はここに繋がったのか」と合点の行く瞬間を経験するものだ。しかし、それでもなお私たちの行く先は分からないままである。しかし、その道を主がつけてくださる! これまでそうであったように、これからも! そう信じ、委ねて生きる歩みこそ、信仰者の歩みである。それができれば十分なのである。

     箴言に次のような言葉を見出します。「心を尽くして、主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにされる」(箴言3:5)。私たちの歩みは右に曲がり、左にそれてしまうようなものかもしれない。まっすぐな歩みを続けることができない者たちだ。「自分の分別(知恵、悟り)」に頼り、道をそれてしまうような者たちだ。アブラムの旅にもそのような失敗があった。しかし、それでも彼は、行く先々で、到達した所で「祭壇を築いた」(7節)、「天幕を張って、そこにも主の祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)。アブラムは主に導かれつつ、主の名を呼び、礼拝をささげ続けたのだ。礼拝を通して、アブラムは導かれ、主がアブラムの「道筋をまっすぐにされ」たのである。神ご自身が道筋をつけ、ついに約束の成就へと導いてくださったのだ。

     私たちは自分の目の前のことしか分からない者たちだ。しかし、一日一日、一歩一歩を主に信頼して、生きる。その時に、私たちの曲がりくねったよう道も、主がまっすぐにしてくださる。主を信頼して、生きていく。それこそが、私たちの平安なのだ。アブラムが神の祝福を信じて行きたように、私たちも毎週、礼拝で祝福の約束を受けて、また一週間の歩みへ、行き先の知らないところへ、初めての経験へと出かけて行く。その中でも神が共にいること、神の養いを信じて、主が道をつけてくださることを信じて、健やかに生きていこう。