カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • み翼の陰に

    2019年6月16日
    詩編17:1~15、マタイによる福音書23:37~39
    濱崎 孝牧師

     詩編17編の「あなたの翼」、これは主ヤーウェの翼、口語訳聖書では「みつばさ」でした。詩の表題は、「祈り。ダビデの詩。」(1節)。信仰の詩人ダビデは、「あなた(主なる神)に逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲しています」(9節)という苦境の中から、「瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください」(8節)と祈り求めたのです。14節には、「御もとに隠れる人」という表現も見出されます。ダビデは「み翼の陰に隠してください」と祈り、それにふさわしい祈りの路づくりにもつとめた人でした。

     マタイ23章37節以下で、主イエスさまは次のようにお語りになりました。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」(37節)。めん鳥が雛を羽の下に集めるように人々を集め、守ろうとした主イエスさまの憐れみ深い愛……。旧約時代の人ダビデは、言わばそういう愛を想い起こし、「主よ、あなたの翼の陰に隠してください」と願い求めたのでした。

     詩17編は、眠れない夜の祈り、3~5節は次のような祈りでした。「あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されます……」。また15節は、「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して 満ち足りることができるでしょう」という祈りです。ダビデは、「あなたに逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲しています。……そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子/待ち伏せる若い獅子のようです」(9、12節)という戦慄の夜の中で、多分まどろむことも出来なかったのです。それはまるで、神さまが火をもって試しにやって来た夜、ダビデはそれを「わたしの叫び」(1節)と言い表さないではいられない祈りの格闘の夜を過したのです。

     泥酔した若者が、真夜中に大声で騒いだため、眠れない思いをした人は警察に通報しました。けれども、ダビデは、警察に対応を求めても解決出来ないような眠れない夜を体験し、神さまに通報したのでした。ダビデは、「主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください」(1節)と懇願し、「あなたを呼び求めます/神よ、わたしに答えてください。/わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください」(6節)と繰り返しました。そういう一所懸命な祈りの行為が、み翼の陰に隠れることになるのです。そして、そのみ翼の陰に隠れる祈りが、「御姿を拝して満ち足りることができる」という朝の祝福を手繰り寄せたのでした。眠れない夜、私どもはどんな対処をしてきたでしょうか。

     眠れない夜、ラジオの深夜放送を聴く人がいます。読書をする人(聖書を読む人も)、心安らぐ音楽に耳を傾ける人もいます。優れたハープ奏者だったダビデは、愛用の竪琴を爪弾きながら眠れない夜を過したことがあったかも知れません。こうした知恵は有効です。けれども、人間にはみ翼の陰に隠れることが不可欠だ……とダビデは語りかけたのです。牧師館には、深夜の2時や3時にも電話がかかってくることがあります。ドキッとして目を覚まし、何の緊急連絡か……と受話器を取ると、「ごめんなさい、眠れないのです……」という隣人の苦悩の叫びが聴こえてきました。眠れない夜というものの深刻な一面を強く印象付けられた出来事でした。そして、私どもは、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられているのです。ですから、就寝前の祈りに、眠れない思いで苦しんでいる人がいることを想い起こし、「眠れない夜に苦しむ人を、み翼の陰に隠してください」というようなとりなしの祈りを加えることができたら、苦しむ友のために、また祈り手のためにも、慈しみ深い主がその翼の陰を祝福してくださるのです。

     讃美歌209番「めさめよ、こころよ」の作詞は、トマス・ケンでした。この人に、「朝の歌」という詩があります。讃美歌のモチーフになった詩ではないかと思います。それには、「聖なる光のかげにやどりて、/おのが光をひとびとにかがやかせよ。」と詠われていました。━━「光のかげ」という表現は面白いですね。でも、み翼の陰に隠していただく恵みを知った私どもには、「聖なる光のかげにやどりて」という言い方にもう違和感はありませんね。そして、私どもも御もとに隠れる人としての幸いな体験を重ね、聖なる光の陰に宿った者の光や温もりを隣人にお届けしたい……という願いへ導かれます。

     み翼の陰に隠れる信仰は、ダビデの独創ではありません。ルツ記を読めば、それがわかります。ボアズが、ルツに語りかけた言葉は次のようなものでした。「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」(2章12節)……あのルツ姉は、み翼の陰に隠れた人だったのです。そして、それが不思議に満ちた豊かな祝福に出会う祈りの路づくりになったのでした。やがてボアズ兄とルツ姉は結婚に導かれ、オべドが生まれましたね。ルツ記は、次のように伝えています。「オべドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。」(4章17節)……きょうのダビデの詩は、何代にもわたって分かち合われて来たみ翼の陰に隠れる信仰を想い起こさせる祈りだったのです。そして、それは主イエスさまのご慈愛に通じるものでした。主イエスさまは、私どもをみ翼の陰に隠して窮地から救い、懇ろにケアしてくださる神さま。主日礼拝も、主イエスさまがそのみ翼の下に私どもを集めてくださる出来事なのです。どうか私どもも、み翼の陰に隠れる信仰を受け継ごうではありませんか。その信仰を次の時代に手渡していきたいですね。そういう祈りの路づくりに、主イエスさまは偉大な愛と力をもって「慈しみの御業を示してください」(7節)ます。ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)。