カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • もうだめか?いや道はある

    2019年11月17日
    イザヤ49:11~16、ルカ16:1~13
    荒瀬 牧彦牧師

     主人の資産を無駄遣いしてしまった管理人が、報告を出せ、お前はもう首だと迫られてから、主人に借金にある人たちを呼び出して、その借金を大幅減額してやった。それによって、失職後に自分を迎え入れてくれる場所を確保した。その話を聞いた主人が、その管理人の賢いやり方をほめた、という譬えである。

     イエス様は、なんでこんなひどい話を譬えに使ったのだろう。もしイエス様が神学校の説教演習で、この例話を語ったら、教師は間違いなく「こんな不適切な例話はNGだ」と言うだろう。なぜイエス様は、わざわざこういう譬えを用いたのか。私の想像はこうである。こういう不正の話こそ、富の力に弱い人間にとって最もリアリティがあって、関心を惹く、ということだ。だって、先週この国を騒がせた、総理大臣の「桜を見る会」も、モリもカケも、皆、人様の金(税金)を使って友だちをキープして自分が利得を得る、という話ではないか。我々にとっても現実味があり過ぎるほどある話なのだ。

     イエス様はもっと自然で、もっと美しいことばでも神の国を語られている。たとえば、「空の鳥を見よ」、「野の花を見よ」。このイエス様の言葉がすとんと心に落ちた人たちはいた。空の鳥、野の花という生きた譬えを通して、神の愛がよくわかった人たちがいた。しかしそうではない人たちはもっと大勢いたのだ。イエス様は、そういう心の鈍い者たちのことを、「お前らにはもう語らない」と見捨てはしない。その人たちの耳を傾けさせる所から切り込むのだ。

     この譬えの最も衝撃的なのは、「主人は、この不正な管理人の抜け目のない(=賢い)やり方をほめた」というところである。そんな間抜けな資産家がいるものか!譬えの読み解きには、このような異常なところ(ありえない点)が重要である。この主人は何を「賢い」と言っているのか? 無駄遣いをしていたことではない。そのことは、「会計報告を出しなさい!お前は資産管理者にふさわしくない!」と怒ったのだ。しかし、自分はもうクビだという危機に立たされてからというもの、このインチキ管理人は「何か打てる手はないか」と知恵を絞って考えて、彼に可能な最善の作戦を取った。主人はそういう行動を求めていたのである。

     この不可解な譬えは、焦点をしぼっていくと、神と人間の関係、神とあなたの話である。神から「お前について聞いていることがあるかどうなのか。報告を出しなさい」とあなたの人生そのものを問われたらどうするか。自分の不誠実、無責任、愛の欠落、虚偽をどうするか。「もうだめか?」人間の側の条件としてはだめである。しかし、「いや道がある」のである。だから求めてほしい。宗教的用語でいえば、それが「祈り」であり、「求道」である。

     なぜまだ道があると言えるのか。それは神さまが、「迎え入れて」くださる神さまだから。この譬えにおける最重要の言葉は、「自分を家に迎え入れてくれるような者たち」の「迎え入れる」である。必要なのは、自分に立つ瀬がなくなった時、追い詰められたところ、もう終わりだというところで、「迎え入れて」くれる場所・存在があるかどうかなのである。イエス様は、「迎え入れてくれるものを必死で求めよ」と言っておられるのだ。

     この譬えを、実際の行動で示してくれた人が聖書に出てくる。イエス様が十字架にかけられた時、その右と左に本物の犯罪人がいた。そのうちの一人は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願った。するとイエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださったのである。もう間もなく処刑されるというところにいたあの男は、しかし自分の人生を投げていなかった。彼は、一瞬の出会いの中で、最善のことをしたのだ。人生最後のチャンスをつかんで、道を見出したのだ。コロサイの信徒への手紙に、今日の譬えと不思議に符合することばがある。「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」。これは、イエス・キリストの十字架による贖罪のことである。

     つまり、こういうことである。証書を書き換えるのではない。証書を破棄してくださる御方がいるのだよ。あなたはどうして、このイエスを友とするために、もっと真剣にならないのか。勇気をふるって大胆に願い出ないのか。もうだめか。いやまだ道はあるのだ。道を見出しなさい。神はご自身のいちばん大切な御子を、あなたの道として送っている。どんな手を使ってでも、イエスという永遠の友を得なさい。あなたを迎え入れてくれる場所を得なさい。