カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 多くの実を結ぶ

    2020年3月29日
    イザヤ53:13~53:5、ヨハネ12:20~36
    関 伸子牧師

     先週、政府は新型コロナウィルス感染症対策本部で会議を開催して今後の対策を発表した。都心部では感染源が分からない人も多く今週末は不要不急の外出を控えるようにとのお達しがでたことを受け、教会堂を閉鎖し、礼拝をライブ配信する教会もある。各教会の対応を聞きながら心が重くなった。しかし私たちは今日ここで礼拝をささげている。野川公園を歩くと桜の花は満開で、ジョギングする青年たちや散歩する人たちを見かける。教会の花壇を見れば、昨年と同じように、球根から芽が出て色とりどりの花が咲き始めている。植物は毎年死んでこの時期になると再びいのちを吹き返すことを毎年繰り返す。

     今日、私たちが読むヨハネによる福音書第12章にはイエスが死んで信じる者たちにまことの命が与えられるという意味で、死と命のことが記されている。自然界の植物と違い、イエスの死は一回だけである。ある人はこの第12章に「栄光の始まり」と小見出しをつけて注解をしていた。しかしそれは11章から始まっている。11章を読むと、マリアとマルタの兄弟ラザロが病気であったとき、イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」(4節)とおっしゃり、「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)とマルタに言う。イエスの力あるわざにおいて神の栄光が明らかになる。ラザロとマルタとの姉妹マリアが高価なナルド油をご自分の足に塗り、マリアが自分の髪の毛でぬぐった行為を「この人のするままにさせておきなさい」(12:7)と受け入れた。その翌日、祭りに来ていた群衆が、エルサレム入りをするイエスを、なつめやしの枝をかざして歓迎する。この同じ人々は、わずか数日の後、「十字架につけろ」とピラトに圧力をかけて、イエスを拒絶することになる。そして、20節以下、ギリシア人がイエスに会いに来たこともまた、十字架上の死をもって最高潮に達するイエスの栄光の始まりだと言う。この「栄光の始まり」というのは、イエスの死により信じる人たちに真の命が与えられるという意味においての栄光の始まりであると思う。

     過越しの祭りへの巡礼の中に何人かのギリシア人がいた。彼らは弟子の一人であるフィリポのものにやって来てイエスに会いたいと告げ、その橋渡しを頼んだ。そこでフィリポともうひとりの弟子アンデレは彼らの希望をイエスに取り次いだ。フィリポはガリラヤのベトサイダ出身であると記されているが、ガリラヤ地方はパレスチナの中でも最もヘレニズム文化の影響を受けた地方であった。アンデレとフィリポは12弟子の中でギリシア名だけで記されている唯一の弟子たちで、ヨハネにとってこの二人は常に対になって出てくる。第1章44節には「フィリポはアンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」と記されている。おそらく彼らは後のギリシア伝道で重要な役割を果たした人たちだったのだろう。

     主イエスは彼らに会うことを拒否される。今は会うことはできない。しかし、イエスが死んだときに初めて、広くギリシア人や異邦人に福音が宣べ伝えられるようになった。

     その時、主イエスがお答えになった言葉が、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)という有名なみ言葉である。塚本虎二訳は23節を「人の子(わたし)が栄光を受ける時が遂に来た」と訳す。これが主イエスの第一声だとう言うのである。「栄光を受ける」とは、ヨハネ福音書記者の表現では「十字架の上に死ぬ」ことを意味する。地に落ちて死に、多くの実を結んだ「一粒の麦」とは、他ならないイエスご自身のことである。実を結ぶのは地上でのことなので、「上げられる」というイメージが湧く。

     先ほどイザヤ書第52章13節から53章5節をお読みしました。苦難の僕の歌と言われる箇所です。高く上げられた王の姿は第52章13節を読むと「栄える」、栄光の王、そして「高く上げられた王」、そして人々に「あがめられ讃美され礼拝される王」だった。しかし、その王となられた神御自身の姿を見た瞬間に人々は息を止め驚いた。なぜか。その王は、「見るべき面影はなく、輝かしい風格もなく、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた」(53:2b~3)からである。これがわたしたちが待望していた王なのかと疑うほどに、その顔も姿も損なわれ、見るも無残な姿だったのである。その人は王座に上げられたのではなく十字架の上に上げられた。罪人のように、病いを得た人のように王の威厳も風格もない惨めな罪人として、十字架という王座に着かされた。

    主イエスご自身、そして父なる神が栄光を受けるのはイエスの死においてなのである。そのイエスの死は一回限りなのである。これは、命を捨てるイエスのみに与えられる報いではなく、周囲にも及び多くの実となる。イエスに会いに来たギリシア人もその実の一つと言えるだろう。イエスの死によって、ギリシア人、異邦人、そしてすべての人に命が与えられる。ここにイエスの栄光があるのである。
    そして、キリスト者の生き方が示されている。ヨハネ福音書が書かれた頃はローマ帝国によってエルサレムが滅亡する迫害の時代であり、多くの人が殉教の死をとげた。迫害のない今日でも同じことが言えるが、信仰を告白し主に仕える者を父なる神は大切にしてくださる。

    27節で主イエスは「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃり、続いて「ああ、何と言って祈ったらよいのだろう」と疑いと迷いをもって、それを神に向かってありのままにぶつけて祈る。主イエスはさらに、「父よ、御名の栄光を現わしてください」と語る。この祈りは「主の祈り」の「父よ、御名があがめられますように」から来ていることは言うまでもない。天におられる父なる神は、ラザロに新しい命を与えてよみがえらせたことにおいて、すでに栄光を現わした。また、父なる神は後に神の子イエスに、そして、すべての信じる人に新しい命を与えて、ご自分の名の栄光を現わすのである。それはイエスの十字架の上での死において。そして、それは、「この世の支配者」つまり、イエスに敵対する悪魔が追放されるときでもある。

    すると群衆がイエスに答える。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか」(34節)。人々は「人の子」自体についても分からなくなってきた。その人々に、「イエスは答えて、言われた」と記されているように、主イエスは忍耐強く、あきらめずに人々を真理へと導いてくださっている。

     人が暗闇に負かされないためには、すでに暗闇に打ち勝っている光であるイエスを頼りにして、道の案内をしてもらう必要がある。私たちは、人の子が誰なのかは、光である人の子イエスに従うことによって少しずつ理解することができるようになるのである。この後、讃美歌21の509番「光の子になるため」を賛美します。私たちは今もなお闇のなかに置かれていますけれども、1節の歌詞にあるように、この世を照らすために来られた主イエスに、光の子になるために従って行きたいと願います。お祈りをいたします。