カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 真理とは何か

    2020年4月5日
    ゼカリヤ書9章9~10節、ヨハネによる福音書18章28~40節
    関 伸子牧師

     今日わたしたちが読むヨハネによる福音書第18章28節から40節は、第19章16節までをひとつのものとして読むのがよいと言われている箇所であり、新約聖書のイエス逮捕に関する記事のなかで最も劇的なものです。ピラトの裁判のことが記されています。ピラトは国家の委任によって立つ総督であり裁判官である。この世では裁き手であり権威を持っているはずなのにその姿は始終揺らいでいる。だから、裁判の間、ピラトは出たり入ったり、うろうろしているのです。

     28節は「イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためであった」と記す。ユダヤ人たちが総督官邸に入らないのは、異邦人であるローマ総督の官邸に入ることによって身が汚れてしまうことを懸念したからである。ユダヤ人たちは自分たちとしては正しいことをしていると思っているが、それは自分で思っているのであって、そこから真理はみえてこないのである。

     主イエスは、裁かれるために、ポンテオ・ピラトの官邸の中に立っておられた。ユダヤ人が官邸の中に入って行こうとしないので、ピラトは自分の方から官邸の外に出て来なければならなかった。外に出て来たピラトはユダヤ人にイエス告発の理由を尋ねた。彼らは尊大に言い返す。「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言って。第18章の12節には「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り」と記されていた。ピラトは彼らの動機がねたみであることもイエスを葬り去ろうとしていることも見抜いていた。だからユダヤ人の律法、宗教的問題で自分がかつぎ出されることを拒んだのである。しかしユダヤ人たちにとっては、ピラトに強要して目的を達成する以外に、イエスを殺す道は残されていなかったのである。

     ユダヤ人たちの訴えを聞いたピラトは、イエスを官邸に呼び入れて本人から直接事情を聞くことにした。「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)。しかしイエスは逆にピラトのその訴えがどこから出たのかを尋ねた。あなた自身がそう思うのか、それともだれかから聞いて言っているのか、と。この後ピラトは「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ」とユダヤ人たちの責任を指摘し、「あなたは何をしたのか」とイエスの責任を追及しようとしている。

     主イエスはイスラエルの王としてエルサレム入城された。事実、イエスは御自分が王であると告げている。しかし、イエスの王国はローマの支配に対抗する政治的、軍事的なものではない。イエスが王として支配する国は、この世にその起源と権威を有するものではない。それでは、イエスの意味される「王」とは何か。そのことが37節で語られる。「『わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』ピラトは言った。『真理とは何か。』」。

     「真理」とは、ギリシア語で「アレテイア」である。アレテイアというのは、隠れていない、という意味である。隠れていないということは、明らかである、はっきりしている、ありのままに現れている、ということである。堂々として、目の前にある姿そのもの、ということである。ヨハネによれば、イエス・キリストこそ受肉した神のみ子であり、そのうちに人を救い(永遠の命)へと導く真理が隠されている。それを信じることができる。ヘブライ語でいう「アーメン!」ということである。主イエスは、そのような方として立ちつづけておられる。

     ピラトが提案した取引は、ユダヤ人たちの神経を逆なでするものでした。「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」(39節)。「その男ではない。バラバを」(40節)とユダヤ人は大声で言い返した。バラバは暴力的な手段にうったえて自分の目的を達成することを選び取った人間だった。主イエスは愛と柔和のお方、力とは何の関係も持たない方であり、その王国は人々の心の中にあった。この後バラバに何が起こったかは誰も知らない。しかし、ある人は大変興味深いことを記していた。「カルバリの丘で木にかけられたイエスを見たときバラバが考えたただ一つのことは、あそこにかけられなければならなかったのはこの俺だったのだ。あいつが俺を救ったのだ、ということだった」と。

     バラバは実際そう考えたかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、バラバこそ、主イエスが死をもって救った罪人のひとりであったことは、明確なことである。わたしたちも主が十字架で死なれたことにより救われたということをあらためて思わされる。わたしたちは、主イエスが十字架にかけられたことにより、今、多くの罪を赦されて、命ある者として生かされていることに深く感謝したい。

     「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。この声は、御目の前に近づいてくるピラトを招き、近づこうとせず外に立ったまま自分を正しいと思っている罪人たちを招き、ここにいるわたしたちを真理に属する者になるようにと招く。これが、わたしたちが国籍を置く国の王なる主イエス・キリストである。心騒ぐこの状況にあっても、十字架の死において神の真実、人の罪と神の愛を示してくださっている主イエスの愛に触れ、罪を悔い改めて、このお方に信頼して歩んで行きたいと願います。お祈りいたします。