カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエスの死に備えて

    2020年3月22日
    詩編2:1~12、ヨハネによる福音書12:1~11
    関 伸子牧師

     今日私たちが読むヨハネによる福音書第12章は主イエスが十字架にかけられる一週間前の出来事が記されている。第11章には主イエスがマルタのマリアの兄弟ラザロをよみがえらせたことが記されていた。しかし、このことが祭司長たち、ファリサイ派の人々のイエスへの殺意を高めた。57節は「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」と記している。

     主イエスはご自分の命をねらっているユダヤ人たちを避けてエフライムにおられた。おそらくそこから、ヨルダン川の向こうのベタニアではなく、エルサレムに近いベタニアに行かれたのだろう。イエスはこの場所をよく訪れ、マルタとマリアの家を伝道の拠点とされたが、ガリラヤからついてきた弟子たちも一緒だったので、マルタは多くの接待で忙しかったに違いない。イエスのためにそこで人々は多くの食事を持ち寄って宴会を開いたからである。

     そこにイエスによって死からよみがえらせたラザロがいた。ラザロは何も語らず、何をしなくても、そこに共にいること、つらなることによって、彼なりの仕方でイエスに仕えているのである。そのラザロをイエスは特別に愛された。

    ラザロの妹マリアの応答はどうだろう。それは独特のものだった。「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(3節)。高価で純粋なナルドの香油一リトラ(326グラム)を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。このナルドの香油とは、インド原産の甘松の根からしぼりとった油で非常に高価なものだった。その一瓶300デナリは労働者のほぼ一年分の賃金にも相当する高価なものだった。それを頭ではなく、足に塗り、しかも髪で拭うということは、想像を絶することである。イエスに対して最大の敬意を払っている。本当の愛と信頼ということのしるしとして独特の奉仕とも言い得る。

     マリアのしたことに主イエスは「この人のするままにさせておきなさい」と言われる。メシアとしてのイエスへの敬いの行為として受け取られたのだろう。メシアの語源は「油塗られた者」の意味である。
     
     先ほど読んだ詩編第2編の1節から3節は、王が交代するという不安定な時期を狙った周辺諸国の反乱の動きを描く。「油注がれた者」、メシア。主に油注がれ、全治の支配を委ねられたのに、地上の王たちはこの支配を認めない。7節では、王自身が「わたし」と名乗って語り始める。諸国の王が仕えるべき相手は、イスラエルの王ではなくその背後に立つ神である。この詩編が呼びかけていることは、イスラエルの王ではなく、その背後に立つ神にひれ伏すことなのです。

     ある人はマリアがイエスの足に香油を塗ることに対してこのようなことを書いていた。「永遠の命を与え、罪を赦した者として、こういう性質のメシアとして、イエスこそメシア的王として即位した。このことがこの油塗りによって象徴されていることになる」。マリアによって油を塗られ、求める人に永遠の命を与え、罪を赦すイエスが真の王としておられる。その場がナルドの豊かな香りに満たされた。

     それに対してイスカリオテのユダが怒る。「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか』」(4節)。

     後に、このイスカリオテのユダの中に悪魔が入り、ユダはイエスを権力者たちの手に引き渡すことになる。「貧しい人になぜ施さなかったのか」という質問に対して主イエスは「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」(8節)と言う。イエスとのかけがえのない関係においてイエスをだれとするかということが問われる。確かにイエスはわたしたちと共にいてくださるが、十字架の上で処刑されるために取り去られる一時が来る。その時、人々はイエスと共にイエスと同じ状況で十字架に掛けられることはないのである。この世の罪を赦すために十字架に掛けられたのはイエスお一人であり、そのわざを誰ひとりとして助けることも阻むこともできない。したがって、イエスが取り去られる直前である今は、イエスに仕えることを優先すべきなのである。

     マリアのように応えていくことがわたしたちの信仰生活である。しかし、わたしたちは自分自身を振り返ってみて、わたしのために死んでくださったイエスに対して、ふさわしい歩みをしているだろうか。それほどまでしなくてもいいのではないかと思うかもしれない。信仰は自分あっての信仰で、信仰のために自分が苦しんだり、貧しくなったりしていくのはおかしいというのが、イスカリオテのユダの論理ではないだろうか。わたしたちは、イエス・キリストは神の子であると信仰を告白し、キリスト者とされ、罪を赦され、イエスの命が注がれたのだから、持っている最善のものを用いて主イエスの愛に応えてゆきたい。お祈りをします。