カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 私の主、私の神よ

    2020年4月19日
    詩編118編13~25節、ヨハネによる福音書20章19~31節
    関 伸子牧師

     マグダラのマリアに復活のイエスが現れたのは日曜日の朝のことでした。その夕方には12弟子とその他の弟子に自らを現わされます。ところが、弟子たちは恐がって、家の戸を閉めて中に入ったまま、外にでようとしなかった。

     弟子たちはいったい何を恐れていたのか。彼らは既に主イエスの復活をマグダラのマリアから聞いて知っていた。復活なさったのは、自分たちを愛してくださった主です。それならば、必ず自分たちを訪れてくださるはずです。家の戸も窓も全部開け放ち、主を待つのが当然でしょう。しかしそうではなかった。イエスの弟子であることに対するローマ当局の弾圧と迫害の不安と恐れが彼らの心の中にあった。だから、集まっていた所の戸を閉めて、自分たちの心も閉ざしていたのです。

     イグナチオ・デ・ロヨラによって始められたイエズス会の霊性修行において、イグナチオは、ものを判断し識別するためには、まず、なにものにも捕らわれない心が必要であると著書である『霊操』のなかで説いています。翻訳をしたイエズス会の門脇住吉司祭は、霊操の根本原理は「死と復活」の経験であり、この原理が貫き通していると解説に書いている。古い自分に死に、新しい命に活かされることを思わされる。弟子たちは、復活したイエスに出会っても、それが復活だとわからないで、なにか不思議なことのように片付けてしまっていたのではないかと思う。もちろん不思議なことであるのですけれども、神がなぜこのようなことをなさったか、それが私たちとどのようなかかわりを持つかは、後にわかることなのである。

     弟子たちが集まっていた所は戸が閉ざされていたのに、イエスが現われて弟子たちに声をかけ、「あなたがたに平和があるように」(19節)と言われ、十字架にかけられた手とわき腹をお見せになった。「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)。そしてイエスは、「そう言ってから、彼らに息を吹きかけられて言われた。『聖霊を受けなさい』」(22節)と言われます。このことは、ヨハネによる福音書にしか明記されていない。

     先ほど詩編第118編13節から25節を読みました。「激しく攻められて倒れそうになったわたしを 主は助けてくださった。主はわたしの砦、わたしの歌」(13~14節a)。人を恐れず神に信頼することを教えられる。後半には「親石」となった栄光の主イエスを想起させる言葉が記されている。

     栄光の主イエスの復活とは、いったい私たちにとって何なのか。イエスはまず、「あなたがたに平和があるように」と言われた。主イエスの存在は、マタイ福音書の最初にあるように、「インマヌエル、神われらと共に」である。復活の主は、死を突き抜けてわたしたち人間に「神がわたしたちと共に!」と告げるのです。あなたは恐れることはない、主イエスが来て、共におられる。

     この時、12弟子のひとりであったトマスは、どういうわけかその場に居合わせず、後でそのことを聞いて、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と開き直ります。トマスは疑い深く、実証主義者でもあります。つまり自分の目と手しか信じない。イエスはトマスのために、復活された一週間前と同じ状況のなかで、弟子たちの真ん中に立ち、「平和があなたたちにあるように」とあいさつをしてトマスに出遭われた。

     トマスは、復活したイエスの声を聞いて、確かにあの主イエスだと確信した。そして、ただ「わたしの主、わたしの神よ」とひれ伏した。復活の主との出会いは、自分が僕として生きることと結びついている。イエスの復活を信じるには、その姿を見ることよりも、その声を聞くことの方が重要なのである。ペトロの手紙一の第1章8節から9節はこう記す。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」。

     聖書を通し、その中に証言され記され信仰告白されている福音の言葉を通して、私たちは復活の主イエスに出会うことができる。それが聖霊の働きなのである。そして、それが「見ないで信じる信仰」なのである。見ないで信じる信仰、それが私たちを活かし、キリストにあって生きることの喜びとさいわいをもたらす。

     主イエスは教会を建て、人々が目に見えない復活の主に出会う場所とされた。復活の主のいのちに生きる者たちとの交わりの中で、復活の主に会うことができるようにされたのである。永遠の希望の主が来られる。その方が私たちと共にいる。「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白する。これこそ真実の礼拝です。私たちは、このような厳しい状況の中にあっても、御言葉に聞き、主が共にいてくださることを覚え、互いに愛し合いながら生きる群れでありたい。お祈りをいたします。