カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストの証人

    2020年5月3日
    イザヤ書62:1~5、ヨハネ21:15~25
    関 伸子牧師

     今日私たちがご一緒に読むヨハネによる福音書第21章15節以下において、復活された主イエスがペトロを捜して来てくださり、尋ねます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と。しかも一度だけではなく三度までも。ペトロとのやり取りを通してペトロに対する牧会命令と言われている言葉が記されています。

     ペトロは12弟子の中心的な人物でした。しかも、イエスを裏切るという決定的な失敗をした人でもありました。ヨハネによる福音書第13章36節以下で、お前は、今は、私について来ることは出来ないと主イエスに言われ、ペトロは、「どこへでもついて行きます。あなたのためには命も捨てます」と言うのですけれども、「鶏が鳴く前に三度私を裏切るであろう」とイエスに言われる。

     ここで主イエスはペトロに3度問われます。これは回数ではなく、何回も何回もという意味を含むことです。イエスが「この人たち以上にわたしを愛しているか(アガパオー)」と問われたのに対して、ペトロは「私はあなたを愛します(フィレオー)」と答える。「愛している(アガパオー)」という表現が称賛や敬意における愛を示すのに対して、「愛している(フィレオー)」という表現は、感覚や感情における愛を示す故に、イエスに対するペトロの愛情はイエスの期待からずれている。

     日本語に訳すと3回とも「愛する」と同じ訳が用いられているので、その違いがわかりませんが、もし原語の意味をくみとって訳すと、3度目には「あなたはわたしが好きか」と言い表すのが直訳となります。人は問われる存在です。信仰こそ問われる現実です。信仰とは、この神からの問いかけを最も気にすることなのです。

     ペトロの心の中には主を3度、徹底的に否定し、裏切ったという取り返しのつかない失敗がわただまっていたし、イエスの問いに自分への疑いすら感じたのでしょう。ペトロは3度目には私はあなたを愛していますが、あなたは私自身よりも私を知っておられます。私は何の主張もできません。あなたを裏切った男ですから。ですから愛しているという証拠も自信も資格もありません。ただ私のありのままを一切あなたにお委ねしますと言うのです。この時ペトロは自分が徹底的に裏切った主イエスが、自分の罪を赦してくださったことを心の底から信じたのでした。

     それはまた、それほどの主イエスがペトロを赦し、愛しておられることを示しています。この任務を遂行するのもペトロが自分の力でできるものではありません。ペトロは主イエスから力を受けて、主イエスの愛の力でこの任務を果たすようにと主に言われた。

     イエスがペトロに言われた、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)、は年を重ねられた方たちには身につまされる、リアルで、生活体験のにじむ言葉として迫ってきます。しかし、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(19節)と著者は神学的に説明します。

     他の弟子たちがどうなるか気にする必要はない。あなたはただ、わたしの言葉に従って、わたしから与えられた使命に忠実に生きればそれでよい、と主イエスは言われる。それは私たちにとっては、どのような道でしょうか。一人ひとり違うでしょう。私たちが自分の一切を主に委ねることが大切です。ペトロに対してそうであったように、そのような信仰と信頼も主の恵みによって与えられる。ペトロは主イエスの赦しの憐れみのゆえに殉教の死に至るまで主イエスに従い、イエス・キリストを宣べ伝え、その羊を養い、殉教の死を遂げることによって神の栄光を現わした。ペトロは縛られて処刑場に連れて行かれ、十字架の上に手を伸ばす。

    「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」(25節)。人々が信仰を持って、永遠の命を得るためであり、父なる神の家に行って、弟子たちのために場所を用意することまでしてくださっています。そのような意味でもパウロがコロサイの信徒への手紙第2章3節に「知恵と知識の他からはすべて、キリストの内に隠されています」と記すように、イエスの行為はこの世に収まりきらないのです。

     イエスはペトロに言われた。「わたしに従いなさい」。この主イエスの愛と赦しは主の教会における主日礼拝において、今ここにご臨在される復活の主イエスに出会わせていただくときに現実となる。私たちも自分で頑張る自力に頼って挫折する罪を繰り返し犯す者であることを告白せざるをえません。そのような私たちにも注がれる主イエスの愛と赦しに感謝をして、喜びも悲しみも主に委ね、キリストの証人としての歩みが祝されますように祈ります。