カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 互いに愛し合いなさい、主の掟

    2020年5月10日
    エゼキエル書36:24~28、マルコ15:9~17
    関 伸子牧師

     ヨハネの福音書第15章は、ぶどうの木と枝のたとえ話が、最後の晩餐の席で行われる告別説教として始まります。主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1節)と言われる。「わたしは・・・・・・である」と語られる文脈を見ると、二つの事に気づく。一つは、「イエスが・・・・・・である」のは必ず私たちとの関わりにおいてであるということ。もう一つは、前後に必ず御父のことが言及されている。このことからも、御父とイエスの関わりの緊密さがうかがわれます。

     主イエスはぶどうの幹と枝の関係について語られた後、主イエスにつながっていながら、実を結ばない枝を取り除き、実を結ぶ枝はいよいよ豊かに実を結ぶように手入れをしてくださる。私たちがキリストにつながっているということは、イエスが私たちを贖ってくださった血が、今日も私たちの内に注がれているということです。どんなときにもキリストに愛されているという事実に立っていくことが、つながっているということである。

     そして、主イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と述べてから、「わたしの愛にとどまりなさい」と教えます。弟子に対するイエスの愛は、イエスに対する御父の愛に根ざしていますから、弟子たちがイエスの愛にとどまるとき、父の愛にとどまることに通じています。そして、わたしが愛したように、「互いに愛し合いなさい」(17節)と言います。この愛のテーマはヨハネによる福音書とヨハネ書簡において中心的なものです。 

     そこでイエスは「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)と断ってから、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と宣言します。

     私たちはなんと小さなことで、隣人を赦せず、愛せないことでしょうか。自分の罪のありのままの現実に目が開かれるなら、こんなに罪深い無にも等しい私が、神に等しい神の子主イエスに、ありのままで、無条件に赦され、愛され、受け入れられて、主イエスに「わたしの友」と呼ばれていることに驚かされます。

     『愛と自由のことば 一日一章』という本のなかに、「愛のほほえみ」と題する、テレジアという修道女の文章があり、興味深く読みました。こう記されていました。「修道院の中には、もちろん仇はおりませんが、やはりここにも、自然に好きな人と嫌いな人がありました。ある人の側には知らず、知らず、ひきよせられ、ある人には回り路をしてでも会うことをさけたりいたします。・・・・・・以前何かにつけ事々に私が不快の感を抱かずにはいられなかったひとりの修道女がおりました。私は全力を尽くして、この姉妹を最愛の友を扱うように扱いはじめました。・・・・・・霊魂の名匠にいます主も、私がただその御手の業の外形ばかりを見ず、主が住居として選び給うた内なる聖所まで見透かして、その美を賞め讃えたことを、たしかに嘉したもうたことと存じます。・・・・・・彼女は或日、真によろこばしげなほほえみを浮かべて申しました。『テレジア童貞よ、私のうちに、何かあなたをそれほどひきつけるものがあるのでしょうか? まあ、おめにかかるごとに何ともいえぬ御親切なほほえみで迎えていただきますので・・・・・・』。ああ、私の心をひきつけるもの、それは彼女の霊の奥ふかきところに住み給う主イエス、もっともにがきものをも甘きにかえ給う主イエスでございます」。

     愛することができない人を愛そうと努める。そこに主の霊が働いたことを知ったテレジアはどんなに喜んだことかと思います。ヨハネによる福音書には、「喜び」、それも、「満ちあふれる喜び」のモチーフが繰り返し現れます。いずれもメシア(救い主)イエスとの交わりがもたらす救いの実りにあずかる喜び(4:36)、ぶどうの木とつながる喜び(15:11)。そして、私たちがどんなことを願っても、必ず聞き入れられると、イエスは弟子たちに約束しておられます。

     選ばれ、任命され、愛のわざに出かけていく、このイエスの友たちに、イエスは言われたのである。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。喜びの完成を約束された主イエスが、その喜びの友たちによって、ご自身のおきてが守られる道をも備えてくださっている。主から委ねられた使命に生きる者は、それを果たすために、父なる神の助力を願い続けざるを得ない。しかし、すべては、イエスのうちに留まることから始まり、またそのことに帰るのです。ある人は言いました。留まることは生きることであり、離れることは死に至ること、と。私たちは、イエスのうちに留まり、主に愛されている者として、互いに愛し合う者でありたいと願います。お祈りをいたします。