カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエスは既に世に勝っている

    2020年5月17日
    出エジプト33:7~11、ヨハネ16:25~33
    関 伸子牧師

     人間の弱さは危機に面した時に現れてくる。そして、人は悲しみの中に閉じ込められる。新型コロナウイルス拡大による緊急事態宣言が延長された今の私たちもそうかもしれない。主イエスは気の遠くなるような忍耐と寛容をもって弟子たちを導かれた。ところが弟子たちは、明日は主が十字架にかけられるという時になっても、なお、イエスの言葉が分からないで互いに論じ合っている。

     主イエスは、ヨハネによる福音書第16章28節で「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と、弟子たちに語る。主イエスご自身の受難と十字架を予感させると共に昇天が告げられる。その一部始終を弟子たちは深い悲しみの中で体験する。しかし、イエスは、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)と、ご受難の最後に、再び弟子たちに会うと言われた。

     「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と言われた主イエスは弟子たちを「みなしごにはしておかない」とも約束されました。御父のもとから聖霊を派遣し、その聖霊をとおして、弟子たちの間に現存し続けられるからです。聖霊の働きとは何か。弟子たちがこの時点で理解できなかったイエスの教えを、ことごとく悟らせることが、聖霊の使命なのです。私たちは教会の礼拝において、聖霊が確かに働いていることを認めることができる。しかし、今すぐに、私たちはすべてのことが分かっているかといえば、そうであるとはいえない。まだ分からないことも多くある。

     神が必要な賜物を与えて、あなたがたの喜びを満ち溢れさせてくださる。イエスの命令を守る弟子たちはイエスを愛しており、イエスの父なる神はその弟子たちを愛する。ここで驚くべき表現がある。それは、父なる神の愛にギリシア語でフィレオーという友愛を意味する言葉が用いられていることである。ここで神は友としての愛をもっていつくしまれる。神が私たちを友として扱ってくださるというのです。

     先ほど、出エジプト記第33章7節から11節までをお読みしました。モーセは宿営の外に天幕を張って「臨在の幕屋」とする。モーセが幕屋に入ると、雲の柱が幕屋の入り口に立った。それを見ると民は全員立って、おのおの自分の天幕の入口に立って礼拝したという。そして、神は人が友と語るように、「顔と顔を合わせてモーセに語られた」と言う。新約において、イエスが、弟子たちを友と呼ばれたことの原型がここに見られる。主イエスは私たちを友と呼んで、親しみ、いつくしんでくださる。なんという驚くべき言葉でしょうか。

     弟子たちは、ここに至って、明確に告白しました。「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神の下から来られたと、わたしたちは信じます」(30節)。しかし、イエスは弟子たちがイエスを捨てて、散り散りになってしまうことを予告する。それでもイエスは孤独ではなく「父が、共にいてくださる」(32節)ことを宣言される。

     それに続いて、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)という、イエスの力強い勝利宣言がなされる。迫害のもとで厳しい状況にさらされるイエスの弟子たちはなお、悲しみや苦しみ、不安、いつわり、その他、闇の世の力のうずまく世界に生きる。コロナウイルスの厳しい状況の中で右往左往する私たちの姿をも示す。なお多くの悩みの中にあって苦闘しなければならない私たちにとって大切なことは、苦しみに直面して、それに耐え、それを担って行く力を与えられることです。

     主イエスは十字架を負って、苦しみと悲しみの道を歩み抜かれました。そのイエスが、十字架を突き抜けた復活の主として、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語る。

     「私によって平和を得る」とは、直訳すると、「私において平和を持つ」であり、「この世で苦難がある」とは、「この世において苦難を持つ」である。確かに、弟子たちはこの世においては迫害などの困難な時を過ごすが、イエスと共にあって、この世にありながらも、イエスの言葉に従い続けるなら、神から平安が与えられるのである。

     私たちは、この苦しみや悲しみに満ちた世の歩みが決して無意味ではなく、絶望でもないことを知る。そこから生きる喜びが与えられ、希望が生まれる。神の愛の中にいつも生かされている恵みを希望の礎としながら、神さまから委ねられた多様な働きを担っていく者とされたいと願います。お祈りをいたします。