カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 生ける水、川となって

    2020年5月24日
    エゼキエル47:1~12、ヨハネ7:32~39
    関 伸子牧師

     仮庵祭が最高潮に達した最後の日に、主イエスが叫んで、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書にも書いてあるとおり、その人の内から生きた水が河となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:37b~38)と言われました。祭りの7日目、最後の日にイエスが立つという行動は、当時の教師たちと同様にいつもはイエスが座って教えを説いていたことを考えると、際立った振舞いです。

     その前後にユダヤ人同士の問答、イエスとの問答が記されています。この前後の問答を端的に言うならば、「イエス・キリストは誰であるか」、また、「キリストはどこから来たか」という二つの問いに要約されます。ユダヤ人たちはせいぜい、この人がどこの出身かを知っている、ぐらいで、イエスの真の起源、すなわち、お遣わしになった御父にまで思いを馳せることはできないのです。

     イエスはやがて、御父のもとへ帰るべきお方です。そこから来られたからです。そのような方を信じることは、もはや人間の力によることではなく、聖霊の力添えによるのです。

     主イエスは、エルサレムの神殿の中で、仮庵祭の時に、将来ご自分の復活後に人々に与えようとしておられる聖霊を水のシンボルで示されました。この祭りは、イスラエルの民の荒れ野での長旅を記念し、庵を作って仮住まいをする収穫祭でしたが、毎日、シロアムの池の水を黄金の器にくんで神殿に運ぶ儀式が行われました。ガリラヤ地方と違って、イスラエルの中部からエルサレムを含んで南の方にのびる荒れ野では、水は実に尊いものであり、まさに生命の源と感じられたのです。

     先ほど、エゼキエル書第47章の1節から12節をお読みしました。1節に水が神殿の敷居の下から沸き上がって、東の方へ流れ出したと記されています。生命の領域である神殿から流れる水は、命の象徴です。ヘブライ大学で学んだ方からヘブライ語を学んだ友人から聞いたことですけれども、旧約聖書で川や水が出てきたとき、日本人が思い浮かべるイメージとは違うと言っていました。乾期には地面がひび割れるほどにカラカラに渇き、雨期には、水がどっと流れて溢れて、一気に洪水になる。そういうところでは、いつも水が流れている川というのは非常に珍しく、いつもは涸れていて、雨期に水が溢れる川が多いのだというのです。ですから、「水が神殿の敷居の下から沸き上がって、東の方へ流れ出した」というのは水がどっと流れ溢れたのでしょう。このシロアムの泉については、ヨハネによる福音書第9章、主イエスが唾で土をこねて盲人の目に塗り、シロアムの池に行って洗えと命じられたことが記されていましたが、この仮庵祭の終わりの日と主イエスの言葉がつながれていることは深い意味があると思います。

     群衆は神殿の儀式に参加し、祭を祝う喜びで興奮していたかもしれませんけれども、心の奥深くに満たされない渇きを覚えていたのでしょう。そうした人々の心を見極めて、イエスは招きの言葉を語る。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(38節)。第4章でサマリアの女に対して言われた主イエスの言葉(10節)を思い出す方もあるでしょう。イエスご自身が命のパンであると同時に命の水であり、命の水が与え手であるが、イエスを信じる者もまたイエスと一つになることによって、自らの内から命の水を流れさせるようになるのです。

     この後に讃美歌21の404番「あまつましみず」を賛美します。讃美歌21に含まれている日本人による創作詞としては一番古いものです。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(ヨハネ4:14)からインスピレーションを与えられたようです。少し古風ですがとてもよい歌詞だと思います。川端純四郎先生という神学者・オルガニストであった方が書かれた『さんびかものがたりIV さあ、共に生きよう』に、この曲の紹介文がありました。作詞者は永井えい子さんという方です。川端先生は、松井えい子という幕末に生まれた一人の女性が、キリストと出会った喜びと感謝を歌った歌を、今、私たちが歌う時、私たちが背負っている二百年の福音宣教の歴史の重さを厳粛な思いでふりかえらずにいれないと思います、と述べる。

     イエスを信じることによって、信じる者も、この霊を受け、この霊によって命が与えられることになる。具体的には、復活のイエスが弟子たちを派遣するに当たって、息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハネ20:22)。主イエスと出会うためには、自分自身が渇いていることを知る必要がある。自らの魂の渇きは自分自身の努力によって解決されることはできない。しかし、主イエスは「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい」(37節)と私たちの渇きを潤してくれることを約束される。来週はペンテコステ、聖霊降臨日です。イエスが与えられる「人を生かす水」として、その霊をいただき、真の人生を歩んで行きたいと願います。お祈りいたします。