助け主の約束
2020年5月31日
詩編104:24~30、ヨハネ14:15~27
関 伸子牧師
ペンテコステおめでとうございます。ユダヤ教の五旬祭はギリシア語でペンテコステ(50日目)といいます。この日、祈っていた弟子たちの上に神の霊が降り、霊が語らせるままに他の国々の言葉で語り出したのです(使徒2:1~3)。キリスト教もこの日をペンテコステと呼び、教会の誕生日として祝ってきました。不思議な出来事ですが、今、神の霊が降り注いていることを、その霊が助け主として私たちに与えられていることを信じたいと思います。
ヨハネによる福音書第14章15節以下に、十字架の死を定めと悟られた主イエスが、愛する弟子たちのために残した言葉が記されています。15節に「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とあります。具体的にその命令とは、イエスの弟子たちがお互いに愛することであり、その命令を守ることは、永遠の命そのものにつながる。それに対して、21節では「わたしの掟を守る人は、わたしを愛する者である」となっています。これは、イエスを愛することと、イエスの掟を守ることが、信じるという現実の表裏であるからです。それは、イエスへの信仰に留まることであり、イエスを通して示された愛の中で互いに愛し合うことです。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。「真理の霊」が突然、別の弁護者」として導入されています。「弁護者(パラクレートス)」という語が出て来ます。「傍らに(パラ)」「呼び(カレオー)」寄せて見方になり、彼は弟子たちと共に、弟子たちの中に、とどまるであろうと約束される。
それは「別の弁護者」の派遣の約束であり、また、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(18節)という、イエスご自身の再来の約束である。世はこの「弁護者」を見ることも、知ることもできませんが、イエスを信じる者はその方を知り、その方との関わりの中に生きるようになります
この約束を具体的に示すのが、「わたしはあなたをみなしごにはしておかない」(18節a)という主イエスのお言葉です。弟子たちの悲しみは、弁護者が来てくださることによって乗り越えられ、弟子たちはもはや、親を失った孤児のように、身よりなく、ひとりで生きなければならないということはないのです。なぜなら、弁護者、すなわち「神が、私たちと共にいます」(インマヌエル)からです。
この世の人々は確かに、イエスが天に戻ると、イエスを見なくなるが、弟子たちはイエスの送る聖霊に導かれてさまざまな形でイエスを見る。たとえば、ステファノは父なる神の右に立っているイエスを見上げ、パウロはイエスの光を見た。そして、弟子たちがイエスを見ることができるのは、聖霊が共にいて霊的に生かされているからであるが、霊的に死んでいるこの世はイエスを見ることができない。
御父がイエスの名によって派遣される聖霊のもう一つの働きは、主イエスが弟子たちに語られたすべてのことを、ますます深く、正しく理解させるために教え、想起させる(26節)ことです。この後、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」をご一緒に唱えます。この信条は、教会の洗礼式を母体として生み出されてきた信仰告白のことばです。私たちが信じている事柄の中身が凝縮されており、生ける神への応答としての告白があり、この神にあって生きる希望が言い表されています。
この信条の第三項、聖霊なる神についての告白があります。「わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、預言者を通して語ってこられました」。この第三項は、聖霊についての豊かで包括的な告白であると言えます。聖霊の主な働きは、御子イエス・キリストを私たちに証しすることにあるのであって、ご自身の存在と働きを全面に押し出すよりも、むしろ黒衣(くろこ)に徹するような、秘めやかさの中にあるのです。
主イエスは弟子たちの傍らにいて親密な形であらゆることを教えられましたけれども、やがて聖霊が来ると、イエスと同じように弟子たちの傍らでイエスの語ったすべてのことを教え、弟子たちに理解できる形で思い起こさせてくれる。世との論争の中で弟子たちは霊の働きを、一人の弁護者の働き、つまり一人の弁護者と助け主の働きとして体験していたのです。
主イエスを通して降り注ぐ神の愛が人に浸み込む。浸み込んだ愛は、やがて、泉となって外へ湧き出る。それが、ヨハネの言う掟です。助け主の約束を信じ、この掟に従って歩みたいと願います。お祈りをいたします。