カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 人を生かすパン

    2020年8月2日
    出エジプト16:1~5、12~15、ヨハネ6:22~35
    関 伸子牧師

     先週から教会の祈祷会は夏季プログラムになり、長老・長老経験者による奨励が始まりました。7月29日はKさんが担当して、描き終えたばかりの紙芝居『みにくいあひるの子』を披露してくださいました。集った皆さんの数人が「わたしも白鳥になりたいと思っている」と言われ、思わず微笑みました。信仰者としてまだ途上にあると思っておられるのでしょう。誰でも人生の途上において、「わたしはこれでよいのか」と真剣に自問することがあるのではないでしょうか。ドイツの神学者であったパウル・ティリヒは、これは人間にとって根源的欲求不満であると言いました。主イエスに出会い、恵みとして信仰を、また人生を受け取りたいものです。

     ヨハネによる福音書第6章22節から59節においてヨハネ福音書記者は、パンの奇跡物語にどのような深い意味を見出そうとしているかご一緒に考えたいと思います。パンの奇跡に加わった群衆は湖の東側で夜を過ごし、その翌日、弟子たちだけが夜のうちに対岸のカフェルナウムに出かけたことに気づく。イエスは向こう岸に行かれた。群衆はティベリウスから来た舟に乗り込んでイエスを捜し求めてカフェルナウムに来て湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」(25節)と聞いた。イエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。・・・・・・」(26~27節)と、彼らに心の方向転換をするように求めた。

     群衆がこれほどまでに熱心にイエスを捜し求めるのは何のためか。そのわけを知る手がかりは彼らがイエスに尋ねた二つの質問に明らかにされている。第一は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)。こう問うことによって、群衆は自分たちで神の業を実現できると想定している。イエスは彼らに答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)。イエスは、神の求めるただ一つの業とは、神が遣わした、愛する子を信じることだけなのである、とお答になられた。

     群衆の第二の質問は、「わたしたちが見てあなたを信じることができるようにどんなしるしを行ってくださいますか」(30節)。彼らはイエスに対して資格を証明する奇跡を求める。モーセが荒れ野で天からのマナを降らせ民に食べさせたような奇跡をイエスに要求する。先ほど出エジプト記第16章の1節から5節、12節から15節をお読みしました。今日の箇所で「不平を述べ立てる」と訳された動詞は「ルーン」ですが、この動詞は、はっきりとした特徴をもっています。というのは、14回用いられている内、ヨシュア記第9章18節を除くと、残りの13回はすべて荒れ野の旅を述べる出エジプト記第15、16、17章と民数記14、16、17章に集中しているからです。荒れ野に入る前、民は葦の海の出来事によって神の力を目の当たりにしています。ですから、荒れ野に入って最初の三日の間、水がなかったのに不平は出ませんでした。しかし、マラに着き、やっと見つけた水が苦くて飲めなかったとき、最初の不平がモーセに向けられました。しかし、神の指示通りにモーセが木を投げ込むと、水は甘くなりました。

     イエスは群衆の発言を訂正した。まず、マナを与えたのはモーセではなく、神である。神こそ祝福と恵みの根源であって、モーセを通してマナをもってイスラエルの民を養われた。しかもこれは過去の出来事である。しかし神は今ここで、天からまことのパンをお与えになる。神のパンであるイエスが「天から降って来て、世に命を与えものである」(33節)。しかし彼らはまたイエスの言葉を誤解する。「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』」(34~35節)。「主よ、渇くことがないように、またここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(ヨハネ4:15)とサマリアの女が言ったのと同じように、群衆は「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」という。表面的にしかイエスのことばを受けとっていない愚かな群衆の反応を媒介として、イエスは更に真実を明かされる。

     「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。イエスは人間の肉体的な飢えに対して充分な理解を持っておられ、決して空腹のままで帰らすようなことはなさらない。イエスが弟子たちに「このように祈りなさい」と教えられた主の祈りの第四の願いは「我らの日用の糧を与え給え」である。この祈りは生きるために必要な基本的なものを求める願いです。主イエス御自身が飢え、渇き、枕するところもなく、十字架の上で死んでくださった。イエスは人間の悲惨、飢えと貧困の生活を共に経験された。そのイエスが「このように祈りなさい」と教えられたことを忘れてはならない。このいのちのパンである主イエスに出会う時、人はいのちと力に満ち溢れる。だからイエスを信じる者は決して飢えることも渇くこともない。私たちは罪の赦しを願いつつ、与えられている恵みの賜物を素直に受けつつなお途上の信仰の歩みを生きる者でありたいと思います。お祈りをいたします。