カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • すべての人を引き寄せる神

    2020年8月9日
    列王記上19:4~8、ヨハネ6:41~51
    関 伸子牧師

     ヨハネ福音書は冒頭の第1章1節から一貫してイエスの神性について論じられています。5,000人の群衆とパンを分かち合った後に、イエスは「いのちのパン」としてご自分を示されます。このいのちはイエスの言葉に従うことを要求する。群衆の中の何人かがイエスに反発します。第6章1節から40節に登場するのはガリラヤの群衆であってユダヤ人ではありません。しかし、41節で群衆がつぶやくとき、彼らはユダヤ人たちと入れ替わり、イエスとの対話が進むと事態は緊迫し決裂します。

     ユダヤ人たちがつぶやくことになったのは、主イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と語ったからです。第6章14節で「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と群衆が言い、申命記第18章でモーセのような預言者と言われる預言者であることが指摘された。しかし、人間に命を直接与えることのできるのはモーセではなくて神であるということをイエス御自身が指摘されます。ユダヤ人たちがこの言葉を引用するとき「わたしは天から降って来た」で終わり「パン」が抜けている。これは彼らの関心が「これはヨセフの息子のイエスではないか」と、イエスの生まれにあるからである。

     「つぶやく」(41節)と訳されている動詞は〈ゴンギュゾー〉ですが、この語は「当然だと思われる要求や主張が満たされずに、不安定な状態に陥った」ことを表します。雨宮慧神父は、日本語の「つぶやく」は「小さな声でひとりごとを言う」の意味ですが、「自分の要求や判断が受け入れられずにつぶやく」といった用い方もる。これに対して聖書の「つぶやく」には、最初から「要求や主張が満たされていない」ということが含まれていると解説していました。それは今日の箇所の後に登場する弟子たちのつぶやきからも明らかです。イエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得・・・・・・」と言われたとき、多くの弟子は「実にひどい話だ」(60節)と言ってつぶやき、イエスの説得にもかかわらず、弟子たちの多くが離れ去り、イエスと共に歩まなくなりました。

     多くの弟子が去って行った後、イエスは12人に「あなたがたも離れていきたいか」と問いかけると、ペトロが「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう」と答えています。聖書の「つぶやく」は態度決定をも視野に入れ、自分の判断に従ってイエスから離れるか、自分の判断を捨ててイエスの言葉に従うのかが重要な意味を持つのです。

     主イエスはつぶやきを拒絶する。主イエスに従うこと、イエスを信じることは、今から、永遠のいのちを持つことである。これは、御父と御子を結ぶ交わりのいのちである(47節)。イエスはこの命のパンなのである(48節)。イエスは彼の証しによって、教えによって、そして自分の存在を引き渡すことによってこのいのちを養う。砂漠でマンナによって養われた人々は死んでしまいましたが、このいのちは死によって終わることがない(49~50節)。

     主イエスはこのような神性により、私たちは永遠のいのちという賜物を受け、イエスの肉に共に与ることによって、私たちはあらゆる人々の姉妹兄弟になる。

     先ほど、列王記上第19章の4節から8節をお読みしました。北王国のアハブ王イゼベルはバアルを礼拝するシドン人ですけれども、エリヤがバアルの預言者に勝利したことを知った時、怒りに満ちて、エリヤの殺害を宣言します。エリヤは預言者としての使命を放棄し、南王国に逃げ、さらに荒れ野に入る。こうして今日の箇所に入りますが、その後、ホレブ(シナイ)の山で神に出会い、北王国に戻るようにと諭される。今日の箇所では「彼自身(=エリヤ)は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた」で始まる。結びには「エリヤは起きて食べ、飲んだ。その飲み物に力づけられた彼は、40日40夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」とあります。この二つの箇所の直訳は、明らかに対応させていて、エリヤが歩いて行ったのは、最初は荒れ野の中であり、たった一日の道のことでしたが、それが食べ物の力の中を、40日40夜、しかも神の山ホレブまでも歩いて行く者に変えられる、となります。エリヤが歩いて行ったのは彼を通して働く神の力を強調するためです。

     イエスは、一粒の麦として、十字架上にその肉を裂き、血を流された。それは、世のために与えられた「命のパン」であり、神の与えてくださった肉であったのです。「あなたがたも離れて行きたいか」というイエスの問いに対して答えたシモン・ペトロのように、私たちも「主よ、わたしたちはだれの所へ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であるとわたしたちは信じ、また知っています」(68b~69節)と告白する力と勇気を与えていただきたい。主イエスの招きを受け入れることは、真のいのちを見出すことであり、今、この人生において新たに生き始めることができる。この恵みに感謝して、命のパンであるイエスに従っていきたいと思います。お祈りをいたします。