カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 律法を実現するイエスのわざ

    2020年8月16日
    詩編146:1-10、ヨハネ福音書7:1~9
    関 伸子牧師

     ことばとしるしをもって、主イエスは世にご自分を示し続けられます。ガリラヤは、イエスが水をぶどう酒に変え、役人の息子をいやし、5,000人を養われた舞台です。ニコデモやサマリアの女という個人が相手の場合もありますけれども、ユダヤ人たちを相手にご自分を示される場合もある。ヨハネによる福音書第7章には仮庵祭が背景となり行われたイエスとユダヤ人たちとの論争のことが記されています。

     主イエスがエルサレムでなされた奇跡といえば、ベトザタの池のほとりで病人を癒されたことだけでした。病人を癒された時、イエスはユダヤ人からの問いに「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と答えられたことにより、ユダヤ人たちはイエスに対する殺意を深くしたため、イエスはユダヤに行くことを欲せず、ガリラヤにとどまって各地を巡回され、春の過越祭の時にもユダヤには行かれませんでした。

     それから更に半年経って秋の仮庵祭の近づいた時、「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた」(1節)。原語に忠実に訳すと「その後」は「これらのことの後」となります。それは、第6章を読むと、イエスがご自分のことを永遠の命であるとしたこと、それを聞いて多くの弟子たちが去って行ったことがありますけれども、さらに、この去って行った弟子たちはもはやイエスと共に歩かなくなった(6:66)。イエスは残りの弟子たちや、特に12人の使徒たち(6:67~71)、更に弟たちと共に歩いていたと考えられます(7:2)。

     仮庵祭とはユダヤ人の三大祝祭のひとつで、過越の祭り、五旬節とも呼ばれます。これは秋祭りでありだいたい9月末から10月初めにかけて8日間続きました。また元来は農耕祭でしたけれども、それに歴史的な意義が加わり、出エジプトの際の荒野の天幕生活を想起させるものとなりました。人々は詩編の「都もうでの歌」を口ずさみ、エルサレムへ隊列をなして巡礼した。その地では、家々の屋上や公共の広場に葉のついた枝で小屋を作り、その中に7日間寝起きすることになっていた。神殿では犠牲が献げられ、水汲み、水注ぎの儀式と婦人の庭における夜ごとの祭典でにぎわった。イエスの弟たちはこのことを十分に知っていて、イエスが今こそエルサレムへ向かうべきであることを強く促したのでしょう。それはイエスをこの世に栄誉あるものとして登場させようとするよく考えられた提案であったのです。

     弟たちが言ったことにイエスは答えて「わたしの時はまだ来ていない」(6節)と言って拒否された。ここではっきりと、イエスの時と弟たちの時との対立が現れるところです。「時(カイロス)」はヨハネによる福音書のなかで3回用いられていますが、それが6節で2回とこれに続く8節である。ヨハネは、十字架の時、救済の成就の時をさすのに多くの場合「時(ホーラ)」を用いていますが、ここでは定められた時としての「ホーラ」ではなく、もっと点的な時間「カイロス」が用いられています。兄弟たちに、世に対して自分を顕すようにと迫られたイエスは「わたしの時はまだ来ていない」と答える。イエスがいかに深く時(この場合カイロス)というものを見つめられ、それを他人の意見を聞く場合の規準とされ、またご自分の行動の規準とされておられるかということを強く印象づけられる。

     しかし、イエスは弟たちの行動を止めません。「あなたがたは祭りに上って行くがよい」と、彼らの意思を尊重しています。この態度は家父長制の強い世界では珍しいものです。一番上の兄が言ったことには不服でも従わなくてはいけなかったのです。弟たちが自由に意見を言えたたこと、また、それを認められた主イエスの愛の大きさにも驚きます。

     「わたしの時が来ていない」。直訳すれば「時が満たされていない」。ここでは、今はまだ神の計画が実現する時ではない、ということが述べられ、イエスはすぐにエルサレムすなわち十字架に向かうことを拒否し、ガリラヤに留まる。イエスは父なる神の定めた時には、十字架上へと上り、三日後に天に昇るのである。

     弟たちがエルサレム状況を勧めたときは、確かにその死という一点に向かって時は満ちつつあったが、しかし、「まだ満ちていない」のである。時の設定も、人間の救いも決定的には神のみ心によるのである。このみ心は人間には隠されている。しかしイエスはこのことは神に主権があり、神の行為として見られるべきであり、神から受けるべきことを示された。時のヴェールのもとに隠されている真実は神のみ心である。時は神が支配しておられる。そして時を神の救い、啓示の道具として、イエスの受難と死に用いられたのは神であった。したがって、私たちは、時のヴェールを取られるのも神のみであることを知らなければならないのである。

     私たちが生きる世、日本社会は血の繋がりを大切にします。そこで個人が埋没してしまい、国民としてのことが「わたしの時」よりも優先されがちです。しかし、教会においては、キリストにあって、一人ひとりの自由が尊重されます。この世のただなかで、私たちは互いの違いを認め、隣人を愛し、いつも神によりそなえられている決断の時に身を置き、その時にかなって、ふさわしく用いられたいと願います。お祈りをいたします。