カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 見ること、信じること、生きること

    2020年8月23日
    詩編22:1-3、17-22、ヨハネ福音書20:19-29
    今井 榮子長老

     4月19日、主日礼拝のなかで子どもたちのための聖書の話をすることになっていましたが、12日のイースター礼拝からライブ配信が始まり、礼拝時間短縮に伴い、子どもと一緒の礼拝がしばらく中止になったため、トマスのことを話す機会がなくなりました。トマスのことが気になったので、今日、話すことにしました。
     
     日本バプテスト連盟が発行している『聖書教育』のこの日の箇所をご紹介します。
    聖書の学び《復活者を見る》から引用します。「聖書は、復活のイエスさまと弟子たちの出会いを描きます。ストーリーの前半では、一足飛びに「見ないで信じる者は幸い」と言われず、「見る」ことが強調されています。「(イエスが)手とわき腹とをお見せになった」、「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20:20)。ところがこの時に一人トマスだけはいなかったので、彼は「見る」ことにこだわります。「あの方の手に釘の跡を見、…この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(20:25)。再び現れたイエス様は、トマスに「見る」ことを許されました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」(20:27)。「わたしを見たから信じたのか」(20:29)というイエス様の言葉も、直訳は、「あなたはわたしを見たから信じた」というように、直接に事実を述べる言い方であり、「問い詰め」たり「失望」するようなニュアンスはありません。」

     これら「見る」ことの強調によって語られているのは、「イエスの復活」とは、神によって「見る」ことさえもが許されるような「神による現実」であるということです。それは、肉体的な視力をもって見ることとは全く違う事柄です。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えないものは見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ9:39)。

     《見ないで信じることの幸い》
    『聖書教育』に次のように記されていました。「しかし主はさらに踏み込まれます。「見ないで信じる事ことの幸い」を強く語られ、これこそがこの箇所の結論的メッセージとなっているのです。「イエスは彼に言われた、『…見ないで信ずるものは、幸いである』」(口語訳20:29)。トマスはこの転換を経験しました。彼はあくまでも「見る」ことを求めていましたが、復活のイエスに直面したとき、もはや「見る」ことに固執せず、イエスの足元にひざまずき「わが主よ、わが神よ」と、イエスを「信じる」ようにと転換させられたのでした。そしてこの「見る」ことから「見ないで信じる」ことへの転換のまさにこの所には、復活のイエス・キリストが立っておられるのです。」

     なぜ「見ないで信じることが幸い」なのかについては、この福音書がイエス様の復活からはるか後(紀元後90年頃)を生きる教会とその信仰者に向けて書かれているということが大きいでしょう。当時の信仰者たちはまさに復活のイエスさまを「見ないで信じる」ように招かれて求められているからです。またそれ以上に、イエスご自身が9章で言われたように、「見ている」「見える」思っていることによって、神の真理からかえって外れてしまうことがしばしば起こるからです。
                                        
     トマスのことは、「見て信じる事、見ないで信じる事」がいつも、論じられますが、私は、他の弟子たちが皆、ユダヤ人たちを恐れて集まっていたのに、なぜトマスだけそこにいなかったのかが気になっていました。皆と共に行動せず、何をしていたのか聖書には書かれていません。私自身、他の人といつも一緒に行動するのが苦手なので、トマスの事が気になるのです。

    私はクリスチャンの家庭に育ち子どもの頃は教会学校に行っていましたが、中学生になると教会に行かなくなりました。小さい時からひとりで散歩するのが好きでした。他の人からいろいろ頼まれる事が多かったように思います。身体が小さいため教室の前の方に座っているので、授業が終わると、先生から、教材を職員室に持ってくるように頼まれるのです。そうすると他の生徒は、先生からひいきされていると言われ、いじめられたりしました。

     また、小学生の時、電車通学で同じ方面に帰る子どもたちと一緒でした。電車の中で、ランドセルを座席に置いていると、降りる駅で男の子が私のランドセルを線路に投げてしまったのです。仕方がないので線路に降りて、ランドセルを取りに行くと、駅員さんに怒られました。家の人に来てもらうから電話番号を教えるように言われ、母に来てもらい、母も駅員さんに注意され、家に帰ってから怒られたこともありました。あまり協調性がない子どもでした。

     今でも一人でいる方が落ち着く気がします。家の近所を散歩したりすることが多いです。神さまがトマスを守ってくださったように、このような私でも神さまは守り導いてくださっていることを感謝して、一日一日を大切にして生きていきたいと思います。