カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエスは命のパン

    2020年8月30日
    出エジプト16:1~12、ヨハネ福音書6:48~51
    関 伸子牧師

     今日の礼拝は、東京三教会合同主日礼拝を国立のぞみ教会を会場としてささげる予定でしたが、コロナ禍にあって集うことが難しいので、3教会が同じ式文を用いてそれぞれの教会で礼拝をささげています。わたしたちは、今年読み進めているヨハネによる福音書、第6章48節から51節、更に57節までを通して学びたいと思います。

     みなさんは、いきなり次の聖書のみ言葉を聴いて、どうお感じになるでしょうか。ヨハネ福音書第6章48節から57節までをお読みします。これらの主イエスのお言葉は、低い次元の意味で理解すべきことではありません。51節以前では「信じる」が繰り返されており、永遠の命をもたらすのはイエスの言葉とも理解できます。しかし、51節以降になると、「パン」のイメージから曖昧さが消えてゆきます。イエスが与えるパンは、イエスの「血と肉」そのものであることが明確にされるからです。しかも、51節以降では「食べる」「飲む」「血」「肉」という語が多く用され、「肉を食べ、血を飲む」ことが繰り返し強調されますが、この「食べ、飲む」はイエスの教えた啓示を信じることのたとえとして使われているのではなく、実際に口を使って食べて飲むことを意味します。

     今日の箇所では、イエスの「肉を食べ、血を飲む」ことが永遠の命への道であることが明らかにされます。この賜物はいのちである。それゆえに、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節)。

     しかし、いのちの神への道は平坦なものではない。その途上で道に迷いがちになる。努力をする気も失ってしまう。先ほど出エジプト記第16章の1節から12節をお読みしました。約束の地に向かうユダヤの民は、ある時、モーセに反抗しました。「イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった」(1節)。エリムは荒れ野ではありがたいオアシスです。そこには泉となつめやしが豊富にありました。しかし、出発の時となり、エジプトを出て45日目のその日に人々は再びシンの荒れ野に向かいます。

     またしても不満が本格的に始まります。今回は食糧のことです。彼らはエジプトに留まればよかったと願った。もし最終的に死に場所を選ぶとすれば、自由があって飢えるよりは抑圧があっても満腹できる方がましだ、というのである。そのとき神は少しも怒りを払わさずにモーセに応えた。わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる! これは神による新しい創造を証言するものである。

     6~10節は、3節の民の不満に対するモーセとアロンの応答ですが、神は12節で民の不満に応答している。この中で民は3回繰り返して神に不平を述べますけれども、神は彼らの呟きを聞き食料を与えようとする。さらに、神の栄光が彼らに現れて、この食糧供給が神御自身からの賜物であることを彼らは見ることになる。数々の困難が生じたことによって、民は何の変哲がなくても慣れ親しんだ生活を懐かしく思うようになる。しかし、日毎の必要と結びつく神の臨在を見分ける時に、彼らは再び信仰告白に立ち戻ることができる。すなわち、「我々は今やヤハウェがわたしたちをエジプトから導き出してくださったことを知る。ヤハウェはまことの神である」と。それゆえに、イエスは弟子たちに繰り返して「恐れることはない」(ヨハネ6:20)と言われる。

     58節でイエスの言葉が閉じられますが、ここでの「天から降って来たパン」とは「イエスの肉」のことですから、イスラエルが荒れ野で食べたパンにはるかに優る意味を持っています。パンの奇跡は、十字架による贖いのみわざを通してイエスを信じるすべての者に豊かに与えられる真の霊的な食物のしるしであった。イエスのなす諸々のわざは神がいのちであることを私たちにわからせる。

     ヨハネはキリストのご臨在を、教会の中や礼拝だけに限定することはなかったと思います。ヨハネは「どのような食事においても、あなたがたは主の人間性を語るパンや、生命である血をあらわすぶどう酒を見出すことができる」と言ったのであろうと想像します。聖餐の食卓でも、晩餐の食卓でも、また野外の食事においても、私たちはいたるところにキリストを見いだすことができるのである。キリスト教会の食卓にキリストを見いだし、その後どこに行っても、人々の集まっているところはどこでも、キリストを見いだし、人々と共に神の恵みにあずかることができるのである。真の命のパンであるイエスを信じ、永遠のいのちに生きることができることに感謝します。お祈りをいたします。