カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 命を与えるイエス

    2020年7月26日
    イザヤ書43:1~7、ヨハネによる福音書6:16~21
    関 伸子牧師

     主イエスはご自分を強引に王にしようとしている群衆を避けて、山に行き暗闇の中で一人になって祈っていました。山から見下ろせば暗黒の中にティベリアス湖があり、かつてイエスはその湖の暴風を沈めたことがありました(マルコ4:35~41)。

     「すでに暗くなっていたが」マタイとマルコでは、弟子たちの船出が闇の迫る時刻だとは特に明記されてはいないので、ここにヨハネ福音書固有の主張を読み取ることができます。光と闇と言えば、私たちは次の箇所を思い起こします。「光は闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)。

     あたりはもう暗くなっていた。突然、強風が吹き始めた。弟子たちは帆を下ろした。漕いでも、漕いでも、波に邪魔されて前に進めない。沈没を防ぐだけで精一杯です。19節前半に「25ないし30スタディオンばかり漕ぎ出したところ」と記されています。「スタディオン」は距離の単位で、約185メートルですから、舟は現在、陸から約5キロの所にあり、長さ21キロ、幅12キロのティベリアス湖のかなり中央部に位置していると考えられます。

     パンの奇跡が行われると人々は感動して、イエスを王に推し立てようとしたと聖書は記します。ところがイエスは、弟子たちを海へ、不安の世界へと送り出された。そこにイエスが来られても、弟子たちにはそれが幽霊のようにしか思えない。主イエスはユダヤ人たちに「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」(ヨハネ5:19)と言われたように、父なる神のすることを見てすべて同じようにするので、聖霊なる神が天地創造の時に水の上を動いていたように、今、聖霊に満たされて湖の上を歩く。その時、弟子たちは荒れ狂う湖の上を歩いて来るイエスの姿を見た。そこで、弟子たちは言いようのない恐れに襲われた。

     先ほど、イザヤ書第43章の1節から12節を読みました。「慰めよ」という呼びかけに始まる第二イザヤの預言の中でも、イザヤ書第43章に語られる言葉は慰めに満ちたものです。戦いに敗れ、略奪され、焼き払われ、人々は散り散りにされ、イスラエルが最も誇りと希望を失っていたときに「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛す」(4節)と神は語り掛ける。イスラエルが神の存在を見失っていたときにこそ「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と呼びかけられる。

     イスラエルが「目があっても、見えぬ民、耳があっても聞こえぬ民」(8節)と呼ばれるように、イエスによって食事を分かたれた人々も弟子たちもイエスが何者か理解できなかったように、私たちの心は鈍く、神が共にいてくださると実感できることが少ない。思いがけない困難に遭うとき、病に襲われるとき、家族や親しい友を失って孤独と絶望に陥るとき、はたして「どのようなときにも神は共にいてくださる」と確信することができるでしょうか。しかし、私たちが最も神の不在を感じるときにこそ、思いがけない所に、予期せぬ形で、神は呼びかけられ、主イエスは立ち現われ、聖霊は私たちを包むのです。

     弟子たちは、主イエスを離れた自分の弱さと無力に弟子たちは死を覚悟したに違いない。その弟子たちの目に湖上を歩いて近づく主イエスの姿が飛び込んでくる。このように恐れる弟子たちに、主イエスは「わたしだ、恐れることはない」と言われた。原文の直訳は、「わたしだ。恐れるな」。「わたしだ」というのは、ギリシア語で「エゴー・エイミ」と言い、大変強い言葉である。暗黒の力が主イエスをなきものにしようと迫った時にもそれを打ち倒す宣言として語られるエゴー・エイミである(18:6)。

     この後のことをヨハネはこう記す。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」(21節)。「目指す地に着いた」(21節b)という言葉に、福音書記者ヨハネによる主イエスの湖上を歩かれたことで、最も重要なことが明らかにされます。主は私たちを必ず目的地に導いてくださるお方です。

     東小金井教会が第1回目の礼拝をささげてから56年経った今、コロナ禍にあり、礼拝堂にみんなが集まることはできません。しかし、主イエスが一度私たちの人生に介入してくださるなら、私たちは神の救いを受けることができ、永遠の命をいただくことができるのです。目指す地が見えなくなったと思う時にも主の言葉を聞きとりたいと願います。お祈りをいたします。