カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 永遠の住み家

    2020年10月11日
    ダニエル書12:1~4、ヨハネ11:1~16
    関 伸子牧師

     人生を考えるとき、避けて通れない最大の課題が死です。「人は死んだらおしまい」という考えを子どもの頃、親から植えつけられることがあります。しかし、そのような人生観では決して説得されない人もあります。ヨハネによる福音書第11章は、そういう人々に語りかけます。

     1節に登場するベタニアの家族、マリアとその姉妹マルタは、イエスの弟子であり、親しい友である。ラザロがマリアとマルタの村の出身であるという書き方は、信仰者たちの間では彼女たちの評判が高かったことを示しています。愛するラザロを亡くした姉妹のもとには多くの人々が慰めるために集まっていますが、その慰めは死へのあきらめに基づいています。マリアとマルタは、イエスの所に人を遣わし、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです(3節)とだけ言った。あなたがご存知でありさえすれば、十分なのです。なぜなら、あなたは愛する者をお見捨てにはならないからだであると思っていたのでしょう。ラザロのことは「あなたの愛しておられる者」(3節)、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5節)と記されている通りである。

     ラザロは死んだ。けれども、「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」(4節)。その死自体が死に至るものではなく、むしろそれにより人々がキリストを信じための奇跡に至るものであったからである。

    『死に至る病』を書いた19世紀のデンマークの思想家キルケゴールが、この書の冒頭に書いている一節は「この病は死に至らず」(ヨハネ11:4)から始まる。肉体的な死は決してすべてのものの終わりではない。使徒パウロが言うように、「キリストがあがめられること」が生きることの意味であり、そのことはまた死ぬことの意味であったのです。また、キルケゴールは最後の文章でこのように言います。自分が自分を造ってくださった力の中に曇りなく根差していることを知り、そのようにして自分自身であろうとすること、それに尽きる。なぜかというと、神の手の中にあるからです。このわたしのためにイエス・キリストは死んでくださっているのですから、その自分自身を曇りなき目で見る。神の恵みのなかで自分自身を見る。

     主はユダヤに帰られるが、それはいのちがけのことである。弟子たちは恐れるが、イエスは彼の働きは光のもとでなされることを思い出させる。イエスを拒む者たちが住む闇は、イエスを揺るがすことができないのである。弟子たちは、この光に照らされて、恐れることなく、その役目を続けることができる。

     優れた知恵で夢を解く能力によってバビロンの宮廷で重用されたダニエルは、不思議な幻や預言の言葉の深い意味を尋ねあぐねて悩み苦しむ(ダニエル7:28、8:27、10:16)が、深い祈りの後に、壮大な終わりの火の幻が与えられ(10章以下)、苦難の後に「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の命に入り・・・・・・目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く」(12:2~3)という輝かしい復活の希望が与えられる。

     ユダヤにいる間は、イエスとその弟子たちは死に囲まれている。トマスはそのことを感じ取り、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)という決心を口にする。しかし、同じ人物が後にイエスが復活したことを疑うことになる。墓は死のしるしであるが、神にとっては、墓は閉ざされたものではなく、神の働きは墓の中にまで浸透し、いのちをもたらす。

     イエスは使命を自覚しておられる。同時に、イエスは私たちのうちの1人になり、自分の民の友となり、その痛みを分かち合い、この先を読むと、一緒に涙を流される(33~36節)。マリアとマルタの姉妹は、ラザロは死んだ、これで終わりだと考えて、「もうにおいます」(39節)と言う。イエスはそれに動じることなく、御父に感謝をささげる。そして、「ラザロ、出て来なさい」(43節)と呼ぶ。イエスは横たわっている者を立たせ、繋がれている者を解放し、死んでいる者にいのちを与える。イエスはいのちを具現している。

     ヨハネによる福音書第3章16節は、神は、その独り子を私たちに与えてくださるほどに、この世を愛してくださったのだと書きました。そして、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。独り子を信じる者がみなラザロのようになるということです。滅び行く世界を超えたもう一つの世界の幻を与えられているキリスト者は、聖霊によって心の目を開かれ、絶望的な状況の中にも希望の芽を見いだし、大切に育む者たちでありたい。私たちはいつ死を迎えるか分からないという思いがあります。しかし、終わりの時が来たとしても終わらないいのちに生きる。そのような信仰に生かされたいと心から願います。お祈りをいたします。