カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 来るべき方は誰?

    2020年12月13日
    イザヤ書35:1~6a、10、マタイ11:2~9
    関 伸子牧師

     マタイによる福音書第11章2節以下は、獄中にいる洗礼者ヨハネの質問に始まり、ヨハネに対するイエスの言葉が記されています。洗礼者ヨハネはイエスの評判を獄中で聞き、弟子を送って、「来るべき方であるかどうか」とイエスに問います。「来たるべき方」(3節)。「わたしの後から来る方」(3:11)ですでに使われており、メシアを指します。

     しかしマタイによる福音書第3章を知っている私たちには、この弟子の派遣は奇妙に映ります。なぜなら、ヨルダン川で洗礼を施していたヨハネは、イエスが現れ、洗礼を望んだ時、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と言って、一度は洗礼を断っているからです。ヨハネが洗礼を断ろうとしたのは、イエスが誰であるかを知っていたからです。イエスこそ「聖霊と火で洗礼を授ける方」であると、ヨハネは気づいていました。そうとするなら、イエスの評判を耳にした今、なぜ、改めて来るべき方は誰か、確認しようとしたのでしょう。
     
     このことを調べていると、全く異なる二つの解釈があります。ひとつは、洗礼者ヨハネとイエスは別々のメシア観を抱いていたとするものです。つまり、洗礼者ヨハネが待ち望んでいたメシアは裁くメシアでした。しかし、メシアではないかと期待したイエスはなかなか裁こうとせず、憐れみのわざと福音宣教に熱中しています。獄中で待ちくたびれたヨハネは「あなたが来るべき方か」とイエスに問い質した。 

     別の解釈は、メシア観に違いはあったが、弟子たちが自分から離れてイエスのもとへ行かないのを心配したヨハネは、彼らを送ってイエスこそメシアであることを体験させようとしたと考えるのです。この解釈に立つと4節の「ヨハネに伝えなさい」は不自然です。少なくともイエスはヨハネの意図を誤解したことになります。とすれば、前者の解釈を選ぶのがよいでしょう。メシアは裁くためではなく、助けを必要とする弱い者のもとに救いを運ぶために来られたのです。
               
     先ほどイザヤ書第35章の1節から6節前半をお読みしました。この時代の人々は、バビロン捕囚からは解放され神殿も再建されましたが、預言者たちが約束していた栄光がいっこうに見えない状況を生きていました。期待が泡雪のように消えて落胆している民に、預言者は「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を」と呼びかけます。この神は、「荒野と荒れ地と裁く」を「レバノンやカルメルやシャノン」に変貌させる方です。イスラエルの大地のほとんどは赤茶けた荒れ野ですが、不毛の地が緑で覆われることによって栄光と輝きが示され、その栄光と輝きのうちに神を見ることになります。

    神の救いが現実となるその時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開くことになります。ここでの視力や聴力の回復は、肉体的な回復だけでなく、精神的な回復をも含むかもしれません。そうであれば、目が開かれ、耳が開かれることによって、出来事の意味を知ることができ、出来事に込められた神の言葉を聴くことができます。こうして、狭い心に気づき、広い心へと向かうことも可能になります。

    主イエスはヨハネに対して、「そのとおり。安心しなさい。私が救い主だ」とは答えてくださいません。ただこう言われるのです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(4~5節)。今は、目の見えない人が見、耳の聞こえない人が聞く時です。イエス・キリストにより、歩き、聞き、生き、富む出来事なのです。

     主イエスは洗礼者ヨハネについてこう語られました。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風邪にそよぐ葦か。・・・・・・しなやかな服を着た人か」(7~8節)。「風にそよぐ葦」とは世間の風潮に流される人、「しなやかな服を着た人」とは、ぜいたくな暮らしをしている人のことでしょう。ヨハネはそのどちらでもなく、毅然とした態度で主の道を準備した人です。

     私たちの現実は、世界に苦悩が満ち、戦争、悲惨、残忍、暴虐があります。主イエスがメシアであるなら、なぜ、この悲惨と苦悩があるのかという問いは、現代の私たちキリスト者にも突き付けられています。しかし、主イエスの十字架の苦難と死を通して永遠の命、復活の命をもたらすという神の改革、神の愚かさは、人間の知恵より愚かなように見えて、人間の賢さよりも賢く、深いのです。イエスについて問う者は、いつしかイエスに遣わされた者として帰ってきます。「見聞きしていること」、あの福音の事実を報告する者とされているのです。低く貧しい者となられた神の子主イエス、低く貧しい私たちをそのままで「価高く、貴く」(イザヤ43:4)愛する者として受け入れる主イエスこそメシアと信じる私たちも、喜びの涙をもって、悔い改めの涙をもって、自分自身に起こっている主にある望みを語ることができるさいわいを感謝します。お祈りをいたします。