恐れることはない
2021年2月14日
列王記上19:9~15、マタイ 14:22~36
関 伸子牧師
昨晩、福島沖で大きな地震があり、私たちの住む小金井市もかなりの揺れを経験しました。東日本大震災から10年経ち、余震は10年以内にあると言われていることが起こり、仙台、福島の方たちのことを思いました。「恐れることはない」と弟子たちに言われたイエスさまの御言葉に聴きたいと思います。
「ところが、舟はすでに陸から何スタディオンか離れており、逆風のため悩まされていた」(24節)。ガリラヤ湖には、突然暴風が起こることもあるので穏やかな時でも、湖上に舟を操る者は注意しなければならなかったようです。「スタディオン」は距離の単位で、約185メートル。舟の位置は陸から25ないし30スタディオンだとすると(ヨハネ6:19)、陸から約5キロのところであり、ガリラヤ湖のかなり中央部にいることになる。夜の嵐の中で逆風と波浪に襲われ進むことができず出発点へ戻ることも出来ない状態に陥ったのである。弟子たちの中には漁師もいたが、そういう彼らでさえ、夜になりイエス不在の舟は逆風と荒波に苦しめられ、不安は増すばかりだったと思います。
そこに湖の上を歩いてイエスが近づきますが、弟子たちは「幽霊だ」とおびえ、恐怖の叫びを挙げます。並行記事のマルコは、湖上を歩くイエスを見た弟子たちがイエスを「幽霊だと思い」声を上げたと書きますが、マタイはそれを「『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた」と変える。「幽霊だと思う」のままなら、イエスを幽霊と判断したことになり、弟子は悟りのない無知な者にされる。しかし、「おびえ」に変えれば、判断力が欠如しているのではなく、恐れのあまりそれが狂い幽霊だと見てしまったというように弟子たちの判断を狂わせます。マタイの語る弟子は無知なのではない。ただ信仰が小さいのである。
ペトロのこの姿に弟子の現実がある。信仰が小さいから失敗を犯す。夜通し悩み続ける弟子たちの姿は、私たちの姿そのものではないか。ペトロがイエスに倣って湖上を歩くが、風を見て怖くなり沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。主イエスはすぐに彼らに声をかけ、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」(27節)と言われた。この「私だ」と言う言葉は、特別な重みをもっています。
イスラエルの民が紅海を渡ったとき、神が共にいて敵の力を打ち砕いたように、海の上を歩いて舟に近づくイエスは、神がいつも共にいることを示しています。存在そのものが助けです。小さな子どもにとってお父さん、お母さんのようなものです。主イエスは、しばしば「恐れることはない」と語られました。
そこでペトロは言う。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください」(28節)。水の上を歩く。これは冒険である。主イエスと共にあることの秘義、主イエスによってもたらされる平安を知った人間のことばである。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が船に乗り込むと、風は静まった。船の中にいた人たちは、「まことに、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ(31~32節)。ここで「疑う」と訳されたギリシア語はディスタゾーですが、この語は「あることに関して二番目の(=別の)考えを持つ」の意味だと思われます。ここでのペトロは水の上を歩いてもイエスのもとに行きたいと考える一方で強い風に気づいて怖くなるという別の思いを持ちました。
列王記上第19章に登場するエリヤも思いが二つに分かれた人です。当時のオムリ王朝の政策のゆえにイスラエル社会にはバアル礼拝が横行しましたが、エリヤはそれに反対して立ち上がり、カルメル山でバアルの預言者に対して勝利をおさめます。しかし、バアルの礼拝者である王妃に命をねらわれ、北王国から南王国、さらに南の荒れ野に逃げ、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と死を望みました。シナイの山で神はモーセの前を通り過ぎて行かれました(出33:18~34:9)。同じように、神はエリヤの前を通り過ぎます。そのとき、非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いています。しかし風や地震や火の中に主はおられなかった。神に出会うことがさまざまな困難を伴うのは確かです。しかし、耳を澄まして、沈黙の底で「声」に出会うことができるなら、それこそ真の神の言葉であるはずです。しかし、その声は私たちの願望を満たすとはかぎりません。エリヤも「あなたの来た道を引き返せ」(15節)と追い返されます。
そこでわたしたちが聞くべきことばは、「恐れることはない」であり、さらに必要なことは、その言葉を語られたお方によって得る平安であり、そのことのゆえになお波の上を歩くという行為なのである。神さまは愛する者に特別な経験をさせられます。この時、主イエスは、ペトロの手を握ってくださいました。このお方をしっかりと見つめて前に進んでゆきたいと思います。お祈りをいたします。