カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 心からの祈願

    2021年2月7日
    イザヤ書56:1、6~7、マタイ15:21~28
    関 伸子牧師.

     カナンの女性の物語がマタイによる福音書第5節21節から28節に記されています。主イエスは反対者たちの追求を避けるためゲネサレトを発ち、フェニキアのティルスとシドンの地方に退かれました。そこですばらしい信仰を持ったカナン人の女性に出会い、その女の娘が癒される。カナンは地中海とヨルダン川に挟まれた広域の地に対する古代の名称で、このカナンのギリシア名がフェニキアです。ティルスとシドンはフェニキアの町、ユダヤ人たちからすれば、商人が行き交う多神教の地でした。

     カナンの女は「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫び続けた。この女の娘 は悪霊にとりつかれています。もう自分でもどうしようもないし、そこで母親の愛情でもどうすることもできない。今、この母親は、ただ主の憐れみに頼りました。イエスを「ダビデの子よ」(22節)と呼んでいるので、イエスについて何かを知っていたのでしょう。イエスは、自らは一言もお答えにならなかった。なぜ愛の人イエスが子どものために悩み苦しんでいる女性に何もお答えにならなかったのか。さらに、主イエスが「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われたのはなぜか。

     「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、私をお助けください』と言った」(25節)。女ははじめ立ったままで、私を助けてくださいと言いましたが、次にはひれ伏してお助けくださいと言った。そこに心の変化が起きている。それは、もしあなたが私を憐れんでくださることができるなら憐れんでくださいというのではなく、あなたよりほかに私は助けていただく道はないという態度である。

     それでもイエスは、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」(26節)と屈辱的なことを言われました。これはたとえによるもので、ユダヤ人は異邦人を軽蔑して「犬」と呼んでいましたが、ここでは相手が女性なので「小犬」と言って軽蔑的な口調でいくらかやわらげている。イエスは暗にこの女性の申し出を断ったのである。すると女性は、「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と答える。

     神は私たちに御自分の目的のためにいろいろなものをお与えになる。試練を受けるときにもそこに目的があるとすればそれを感謝して受け取らなければならない。肺結核のため29歳で召された詩人の八木重吉は21歳の時洗礼を受けた。短い詩があります。「病気すると 何も欲しくない この気持ちにひとつのものも混えず 基督を信仰して暮らそう」。病や試練も感謝として受け取る信仰が表されている。 

     カナンの女の娘から病を取り除いてやりたい、それがイエスの本心であるはずですけれども今はそれができない。27節でこの女はイエスの言葉に同意しながら、「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答える。子犬は主人の子どものパンを横取りしたのではない。食卓から落ちたくずを食べる。女の機転が主イエスを動かしたのである。

     先ほどイザヤ書第56章1節以下をお読みしました。捕囚地のバビロンからの帰還は実現したが神の栄光は現れず、むしろ何も起こらない時代が続き、民の失望と倦怠感が広がります。しかし、イザヤは失望せず、1節に、イザヤ書第46章13節を引用して「主は言われる。公正を守り、正義を行え。私の救いが到来し、私の正義が現れる時は近い」と、救いの到来が間近に迫ったことをあらためて強調します。更に、イザヤは異邦人に対する広い心を説きますが、この呼びかけはユダヤ人共同体の建設を急ぐネヘミヤやエズラにかき消されました。しかし、神の救いがイスラエルに留まらず、異邦人にも向けられる。しかし、それはイスラエルの救いが実現してから起こることとされていた(イザヤ56:6~7)。

     イエスは神の救いの計画に忠実に従う僕です。すべての人の救いを望む神によって選ばれたのは、弱く小さなイスラエルでした。イエスは自らの使命を確認するかのように、「子どものパン」を取ってはならない、と否定の言葉を続けるのです。

     女は「子どものパン」を願うことはしません。でも「主人の食卓から落ちるパン屑」なら、今、異邦人に与えられても神の計画を損なうことにはならないはずです。「小犬」と言われたことにも耐え、困難にひるまず救いを待ち望んだ。この機知にあふれた女の信仰がイエスを動かし、彼女の娘は癒されたのです。主イエスは言われた。『「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。その時、娘の病気や癒された』(28節)。主イエスの弟子たちははしばしばイエスから信仰の小さい人々と言われましたが、このカナンの女は逆に、イエスからその信仰の大きさをほめられました。「立派」を口語訳は「見あげたものである」と訳しました。主イエスは、この異邦人女性の信仰を喜びと驚きをもって認めました。そして、イエスが言葉を発したその瞬間に、イエスの言葉によって娘は癒された。この女性のように真実な信仰をもちたいと思います。お祈りをいたします。