カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 穏やかに生きる

    2021年5月30日
    イザヤ書6:1~8、マタイ11:25~30
    関 伸子牧師

     先ほどお読みしましたイザヤ書第6章にはイザヤの召命物語が記されています。マタイによる福音書第11章25節以下には、選び出され、あるいは招かれたものが、いかにそれに応えていくかということが記されています。私たちも神に召されています。それはどいうことなのでしょう。

     預言者イザヤは神殿で天の御座に主が座しておられる有り様を幻に見ました。神の御座の周りをセラフィムが飛び交っているのを見たのです。イザヤが幻に見た神の御座は天と地上の神殿を結び合わせています。衣の裾が神殿いっぱいに広がっているということがそのことを示している。神殿の入口の敷居が揺れ動き、神殿に煙が満ちた(4節)。これは、神の顕現の描写に常に伴うものである。エルサレムの神殿で歌われた詩編第29編は、天上の御座から雷鳴が神の声として発せられ、神殿のものはみな「栄光あれ」と唱える(29:9)。イザヤはエルサレムの神殿で、シナイの神の顕現に等しい啓示体験をしたのである。イザヤは、聖なる神の顕現に接して、神の聖によって滅ぼされるほかのない自分の汚れと、自分がその中に生きている人々の汚れを感じ取った。この聖なる神こそ、全世界を究極的に支配しておられる王、万軍の主である。この信仰が常にイザヤの預言者としての活動の根底に据えられている。

     主イエスはガリラヤにおける伝道が、人々の不信仰に直面して暗礁に乗り上げているように思われる時にも、決して失望しませんでした。主イエスはいつも祈られた。その祈りとは何よりも賛美でした。その祈りは、願い事であるよりも、父なる神との交わりを確認する時でした。このことは、私たちにとっても、祈りの本質が何であるかを示されているように思います。マタイによる福音書第11章25節から30節の前後を見ると、主イエスはユダヤ人から拒絶され、神への賛美とはほど遠い状況にあることがわかります。

     それは「キリストのみ業」(マタイ11:2)と「その業」(マタイ11:19)による囲い込みからなるこの段落では、イエスの到来が「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(5節)という事態を作り出しているのに、その意味を理解できずにいる「今の時代」がとがめられる。続く20~24節では、イエスのガリラヤ宣教の中心地であったコラジン・ベトサイダ・カフェルナウムが名指しされ、そのかたくなな態度が避難される。この後に今日の箇所が置かれ、その後、12章ではユダヤ人とイエスとの軋轢を具体的に述べる。イスラエルは「天にまで上げられる」(23節)特別な民だと思い上がります。しかし、知恵ある賢い者は神の国を見ることに失敗するのである。なぜなら、自己に信頼して、神の力に寄り頼もうとはしないからである。神の国が示される相手というのは、神に頼り切る幼子(小さい者)である。

     主イエスのもとに来る幼子(小さな者)は、決して過大な荷物を負わされはしないのであります。なぜなら、主イエス御自身が彼らのようなものだからである。主イエスは言われます。主イエスが「休ませてあげよう」と言われる休み、憩いは、「わたし(イエス)の軛を負う」ことなのである。「軛」とは、牛や馬二頭の家畜の首にかけ、鋤や車を引かせる木製の道具で、畑を耕したり、石臼を引いたりする時に首にかける道具であり、そこにすべての労役の力がかかるようになっていた。ここでは比喩的な意味に用いられています。当時のユダヤ人にとっては、律法やそれに付随する伝承をファリサイ派の人々のように守ることは義務であり、軛でした。これとは対照的に、主イエスが私たちに負わせる軛は軽いと言われる。

     主イエスは、私たちのために十字架という重荷を負われました。この姿こそ主イエスの「柔和と謙遜」の極みなのです。「軛」はあなたと主を結び、主と連帯するために必要です。それは荷を軽くします。そして、生ける神とあなたをつなぐ働きをするのです。

     私たちは主イエスと同じように「あなたをほめたたえます」(25節)と祈るように招かれている。すべてのことは、自由で無償の神の愛から始まる。このことにより、他者との関わりにおいて出会う隣人を愛することが可能になる。「私に学びなさい」とは、知的に何かを学ぶというよりは、主イエスに見習うという意味である。軛をつけて労役をしたことのない若い牛や馬は、先輩の牛や馬と対になって、並んで軛をつけ、先輩に見習って、仕事の仕方を覚えたのでしょう。おそらく主イエスはこのような習慣を心に思い浮かべながらこのことばを語られたのであろう。この「軛は負いやすい」(30節)。なぜなら、その根には主イエスの愛があるからである。悩みや緊張、疲れの多いこの時代にあって、唯一の心の安らぎは、主イエスのもとに来て、重荷をおろす時に得られるのである。みなさんが、この主イエスとしっかりつながり、真のやすらぎを与えられることを心より願います。祈りをいたします。