神の贈りもの
2021年7月4日
詩編143:1~6、マタイ7:7~12
関 伸子牧師
主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」(7節)と教えられました。これは神の国に入るためには、神の国を積極的に求めるべきだということである。主イエスは福音を語られましたけれども、それを決して聞く者に押し付けはなさりませんでした。どこまでも私たちの自由意志による決断に委ねられたのである。
「誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる」(8節)。私たちの祈りはどうでしょう。神に求めることが少なく、神の門をたたくことが少ないのではないか。私たちは、必要を知ってくださっている神がその必要をみたすのに最もふさわしいかたちと時において与えてくださる。それはすでに与えられているのだから、求めていくのであることを覚えたい。だから神にはできないことはないという深い信仰を持って神に求めていきたい。そのとき神は、人知を超えた御業をなしてくださる。
しかし神に信頼していくとき、人から「あの人はひどい変わり者だ」などと言われることもある。それが「命の道は狭く、細い」ということである。しかし、どのように厳しい道であっても、詩編作者が詩編第23編1節に書くように「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」と告白することができるのである。詩人は続けてこう記す。「主は私を緑の野に伏させ 憩いの汀に伴われる主は私の魂を生き返らせ御名にふさわしく、正しい道へと導かれる」(2~3節)。平坦な道を行っているとき、羊飼いは何もしないが、細い道になれば彼は一匹ずつ抱えて広いところへ連れていく。草原がなくなれば必死になって緑の野をさがし、水ぎわに羊たちを連れていく。そのとき、羊飼いがどのように私のことを思っていてくれるかがわかるのである。
並行記事のルカにおけるこの箇所は「主の祈り」に始まる文脈にあり「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」の三つの動詞は神に向かって真剣に祈願すべきことを強く勧める言葉となっている。主イエスの話されることはきわめて単純です。
「叩く者には開かれる」(8節)。キング牧師は「真夜中に戸をたたく」という説教で、この譬え話は、粘り強い祈りについて述べられており、現代の多くの問題に関するわれわれの考えの根拠と、それらの問題に取り組む際の教会の役割を述べたものとしても役立つものである。この譬え話の時間設定は真夜中であるが、われわれの世界も今や真夜中である。・・・・・・真夜中は、信仰深くしていることが難しい困難の時間である。教会が語らなければならない最も感動的な言葉は、真夜中は長くは続かないという言葉である。われわれが持っている永遠の希望のメッセージは、夜明けは必ず来るというメッセージである。わが奴隷の先祖たちはこのことを理解していた」と語る。人種差別問題と闘ったキング牧師のことばは今、コロナの時代を生きる私たちの心にも響く。
神は、神がよいと思われる方法で、知恵と愛をもって、必ず私たちの祈りに答えられる。また、気落ちせず祈る生活をすることこそ、私たちが祈り求めるものが正しいかどうか、また、私たちの祈る態度が真実であるかどうかを見ることへと導く。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(12節)。主イエスは、対人関係においても、他の人に対して愛を持って積極的に行動するように教えておられる。
当時のユダヤ人の教えは「あなた自身の憎むことを、あなたの隣人に対してしてはならない」という消極的な教えであった。しかし、主イエスはもっと積極的に「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言い切っておられる。人がいやがることをしないのは当然である。しかし、自分がしてほしいことだから、他の人もそうしてほしいに違いないと、相手のことを思いやって行動するのは、その人に対する積極的な愛がなくてはできないことである。主イエスは「これこそ律法と預言者である」と言っておられる。つまり、神を心から愛し、隣人を自分のように愛することこそ、聖書の中心思想なのである。
祈りは、信頼であると共に約束です。こちら側の信念というのではなく、必ずくださるという神からの約束です。「いつ、どのように」は神が最もよくご存知です。それは、私たちの「いつ、どのように」とはちがうかもしれません。しかし、苦しい生活の中で、私たちが与えられたとき、よく考えてみると、それは、最もふさわしい時に、最もすばらしい形で起こったのではなかったでしょうか。神の約束にも時があるのです。神の与える秘義は常に「無い」と思うところに宝を用意してくださいます。お祈りいたします。