カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • ささげる教会

    2021年6月27日
    イザヤ書49:14~21、使徒言行録4:32~37
    関 伸子牧師

     「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと思う者はなく、すべてを共有していた」(使徒4:32)。この御言葉を聞くと、私たちは、少し身構えてしまうかもしれません。今年から祈祷会で使徒言行録を読んでいます。先日、祈祷会でこの箇所を読んだ後、出席された方たちの感想を聞いたら、ある方は「素晴らしいこと。私も初代教会に生きたかった」と言い、多くの方たちは「なかなか難しいことだ」と言っていました。

     このようなことがどうして可能であるのでしょうか。カール・マルクスは、ほとんどすべての人間の生活態度や行動は、経済的な動機に還元し得ると主張しました。ルカはマルクス主義ではなかったと思いますけれども、私たちの財産のあるところに、私たちの心もまたあることを知っている現実主義者であったようです。

     それでもなお、教会は「すべてを共有する共同体」であることをやめません。教会は、共に礼拝に与り、信仰生活を続けていく中で、すでに多くのものを共有しているのです。私たちは、人生の多くの時間を共有し、生まれた時から大人になるまでの記憶を共有し、誕生や出会いを共に喜び、共に別れの涙を流します。楽しいこと、辛いこと、悲しいこと、そして時には争うことがありますし、傷つけ合い、そして和解や慰めを共に経験します。そして何よりも共に神の言葉に聞き続け、共に祈る。教会は、いろいろな意味で人生を深いところで共有しようとする群れであります。しかし、それは教会の中だけに限定されるべきことだろうか。教会の中だけで共有されればそれでよいのかという問いが生じる。

    「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(34節)という表現は、聖霊の恵みが人々の上に豊かにあった証拠を具体的に説明している。「一人も貧しい者がいなかった」は申命記第15章4節を踏まえており、教会は旧約預言の成就と見られる。ユダヤ教の伝道にも相互扶助制度があり、ヘレニズム世界にも財産共有こそが友愛の理想とする理念があった。ルカはそれを念頭において、信仰者の生活の理想として初代教会の草創期を描く。

     強制されていないのに、このような理想的な財産共有社会が成り立っていたとすれば、それを可能にするような力が働いていたはずです。そのことが33節に書かれています。その力の一つは「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした」ことにあります。具体的には、いやしや印や驚くべきことを起こす力のことである。しかし、このような働きはすべて、イエスとその復活を証しするためのものである。ここで、証しを「する(アポディドーミ)」とは、証しを「返す」(直訳)ことであり、復活という神の業がこの世に与えられたことに対して、その出来事を証しするという形で神に返答することが使徒たちの役割なのである。もう一つの力は33節の後半部に書かれています。新共同訳は「人々から非常に好意を持たれていた」と訳しましたが、聖書協会共同訳は「神の恵みが一堂に豊かに注がれた」と訳しています。人々からの好意の意味であれ、神からの恵みの意味であれ、どちらも人間を変える力をもっています。
     
     使徒たちがすべての物を共有していたと言われる事態は、生ける主のご支配の中で起こったことであった。私たちは主イエスにより、ささげものにおける自由が与えられているのだから、問題は、各自がこの自由においてささげているかどうか、である。自由の行使こそが問われるのである。

     このこととの関連で思い起こされるのは、マルコによる福音書第14章3~9節に記されている、ナルドの香油をささげた女の話である。8節に「この人はできるかぎりのことをした」という主イエスのお言葉がある。この「できるかぎりのこと」と訳された「ホ・エスケン」は「できること」とも訳せる。英訳では“She has done what she could”とKJ,RSVは訳している。「できること」「できる範囲のこと」「自分の手におえること」である。「最大限、ぎりぎりいっぱいのこと」というのとは違う。「できる限りのこと」と言っても、「できる範囲のこと」、その人に「可能なすべて」の意である。ささげものがされる時、主イエスが喜ばれるのはそのようなしかたでささげられるものである。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ14:9)。これは女の特定の行為について語られた言葉であるが、このような自由になされたささげものに与えられる言葉として、私たちは、ささげる教会でありたいと思う。

    この後、『讃美歌21』の417番「聖霊によりて」を賛美します。英語のタイトルは“We are one in the sprit”。すべての節の歌詞の初めは“We”で始まります。「ともに生き ともに愛しつつ、示そう 神のみわざを」とは、今日の箇所にふさわしい賛美である。私たちはこのように生き、ここから福音が宣べ伝えられていくことを心より願います。お祈りをいたします。