カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • いつもあなたがたと共に

    2021年7月11日
    ヨシュア記1:5~9、マタイ28:11~20
    国立のぞみ教会 唐澤 健太牧師

     小説でも、映画でも、音楽でも「最後」は重要だ。最後をどう締めくくるかによって作品全体の良し悪しが決まると言っても過言ではない。マタイは自らの福音書を閉じるにあたって最後に大切なメッセージを込めたに違いない。

     「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」(10節)。マグダラのマリアは復活の主に言われたと通り弟子たちに告げたのだろう。11人の弟子たちはガリラヤに行き、「イエス様に「指示されていた山」を思い出したのでしょう。そこで、「イエスに会い、ひれ伏した」。ひれ伏したとは礼拝したという意味だ。という感動的な場面である。イエス様の十字架を前にして逃げ出してしまった11人の弟子たちがガリラヤの山で復活のイエス様に出会い、礼拝したという感動的な場面である。

     しかし、この感動的な場面でマタイはもう一つのことを告げている。「しかし、疑う者もいた」(17節)。注解書などを紐解くとギリシア語の文法では11人の中の何人かが疑ったというのではなく、全員が疑ったという意味になるそうだ。主イエスに会い、ひれ伏しているのに疑っている姿は矛盾しているように思う。しかし、よく考えるとそれは私たちの姿ではないだろうか。

    先日行われた教会暦についてのオンライン研修で荒瀬先生は「毎週の礼拝はリトル・イースター」であることを教えてくださった。私たちは日曜日に復活の主イエスに出会い、礼拝する者たちだ。しかし、私たちも礼拝しながら疑いを抱える者である。

     マタイが書いたこの礼拝し、疑う弟子たちの姿は、主イエスに従う者たちが抱える本質的な問題、弱さをよく表しているように思える。しかも、それが11人が全員疑っているという意味を考えれば、私たちの誰もがそのような本質な問題を抱えているということだろう。ある人は大丈夫な信仰者で、ある人は疑う者ということじゃない。私は大丈夫とか、私は駄目だなとかいう問題じゃない。そこにいた誰もが「疑う者」としての本質的な信仰の問題を抱えるものという意味だ。

     十字架を前にしては逃げ出し、復活の主に出会っても疑う弟子たちに、主イエスは「近寄って来て」言葉をかけてくださった。原文では、前の文章と「すると、そこで」とつながっている。イエス様は疑う弟子たちであることを知った上で、「そこで主イエスは、近寄って来て言われた」のである。この主イエスの何気ない動きの中に、わたしは主イエスの弟子たちに対する熱い想いが込められているように思う。何のいさおもない、十字架を前にすれば逃げ出し、復活の主にお会いすれば疑う弟子たち。近づいてもらえる条件もない。しかし、イエス様がただただわたしたちを愛し、赦してくださり、近寄ってくださる。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださるのだ。

     「いつも」とは直訳すると「すべての日々」。あなたの「すべての日々」において主は共にいてくださる。喜びの日も、悲しみに震える日も、怒りに支配される日も、痛む日も、病の中にある日も、困難に直面する時も、泣く日も、絶望し神などいないと嘆く日も、コロナ禍で疲れ切ってしまう日も、そしてこの世での生を終えて「終わりの日」を迎える日も、私たちの「すべての日々」において主は共にいてくださる。それが主イエスの約束であり、マタイ福音書がクリスマスの出来事から復活の出来事まで一貫して語るインマヌエルという「よき知らせ」である。

     私たちは、この主の「言葉」を主の約束を土台として歩むのだ。天と地と一切の権能を授かった命令者であり約束者である主イエスに従って生き始める。ここの私たちが疑いを克服していく道があるのだ。マタイ福音書に描かれる復活の主イエスは「疑う者たち」の疑いを晴らすために、復活された時の状況などを細かく語ることをしない。約束と命令を告げるだけだ(ヨハネ福音書やルカ福音書と比べてみよ)。つまり、この派遣と約束に生きる時に、復活の主が確かに知ることができるとマタイは告げているのだ。

     「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という命令は、キリスト教が絶対であり、すべての人を強制的に改宗させよということではない。そのような負の歴史を教会が抱えることを十分踏まえ、悔い改める必要がある。「すべての民を弟子にしなさい」というのは、あらゆる違いを超えた主イエスの愛がすべての人の胸にしみ入り、溢れるようにしなさい、ということだ。そのことに仕える時に、どんな困難があっても、時には失敗し、挫折するようなことがあって、教会は、この主イエスに委ねられた務めを今日も、これからも志すのです!「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。この主の言葉を聞いて、この約束を聞いて、私たちもここから派遣されていこう!