カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 聞いて従う

    2021年10月31日
    創世記4:1~10、マルコによる福音書7:14~23
    関 伸子牧師

     マルティン・ルターの改革記念日であり主日のこの朝、宗教改革は信仰の改革であったこと、つまり、聖書の御言葉に立ち返る運動であったことを心に刻みたいと思います。私たちはよく「聖書の御言葉に聞く」と言います。先ほどお読みしましたマルコによる福音書第7章14節は「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい」と主イエスが語られたことが書かれています。

     主イエスがここで言われている、特に群衆が律法学者たちの教えに関して注意すべき点は、律法学者たちが説く「洗わない手」なのである。ファリサイ派の人たちがイエスを問い詰めたのは、弟子たちが「汚れた手」でパンを食べ始めたからです。私たちにとって「汚れた手」といえば、洗わない手のことであるのは自明のことですけれども、マルコはわざわざ「つまり洗わない手」(「つまり」は原語にあるが日本語に訳されていない)と言い替える。そのような説明が必要だったのは、「汚れた」と訳されたギリシア語〈コイノス〉には「汚れた」という意味がないので、ギリシア語の読者のためには「洗わない手」と言い直さなければならなかったからです。

     この語はギリシア語そのものとしては「共通の」とか「世俗の」を意味しますけれどもユダヤ人にとって「世俗」は「汚れ」にほかなりません。律法学者たちが異邦人たちと何かを共有する時、神聖さが失われて自分たちが汚れてしまうと考えたためである。そこで、この語は「汚れた」といった意味合いを持つことになった。

     完璧主義ともいえるような態度は、「昔の人の言い伝え」を重視する姿勢から生じます。この「昔の人の言い伝え」とは旧約聖書に書かれた律法のことではありません。紀元前五世紀の中頃に初期ユダヤ教が誕生し、律法遵守が強調されるようになり、遵守のための細則が作られるようになりましたが、これらの細則の集積が「昔の人の言い伝え」と呼ばれています。しかし、主イエスはそれを「人間の言い伝え」と呼び、神の掟を捨てさせる原因を作り出していると批判します。律法を大事にしようとするあまり細かい規則に拘泥し、「神の掟」に示された神の心を忘れ去っているからです。

     創世記第4章にカインとアベルの物語が記されています。なぜ神はアベルにのみ目を留められたのか。アベルはヘベル(息、はかなさ、空虚さ、無価値)であって、
    ーナー(形作る)を語源として力強い生命力を表すカインと対照をなしていることが鍵である。神は弱い者を顧み、特別な恵みをお与えになったのである。イスラエルが神の民として選ばれたのは、「他のどの民よりも貧弱であった」(申命記7章)からであるのと同じように。

     弟だけが祝福を受けたことにカインは激怒する。彼は弟と自分を比べたのである。耕作と牧畜という異なる領域が兄弟に与えられたのは示唆的である。野菜も必要であり、羊毛や羊肉も必要なのである。あい補うために兄弟がいる。しかし比べ始めたカインは、弟も神も怒りの矛先とし、顔を伏せてしまう。兄の選択は弟を消すことであった。「〇〇さえいなければ」と人は時として考える。「あの人さえいなければ」、そう考える時、私たちは既に心の中でその人を抹殺し始めている。強い者は弱い者を消し去ることができる。しかし神の問いかけは消えない。「お前の弟はどこにいるのか」。いくら「知りません」と言っても血が土の中から叫ぶのである。

     主イエスは、人に汚れをもたらす原因は洗わない手のように外側にはなく、人間の内側にあると教えます。イエスは人間の本質を教えられました。イエスは18~19節で、食物は人の心に入らないで腹に入るだけで、人を汚すことはないとはっきり宣言されました。人の心にある悪い思いがその人を汚しているのである。

     人々の心の中から出て来る悪意は、まさしく律法学者たちの心から出て来ているものである。22節で記された人々の心の中にある悪意も、律法学者たちの心の中に渦巻いているものである。これとは逆に、善意、平和、誠実、節制、親切、柔和、喜びという聖霊の結ぶ実を実現する人々は聖霊に導かれて、天の都で神と神の子イエスを礼拝する。この都の門は一日中決して閉ざされることがなく、エルサレムの門の外で十字架に掛けられたイエスを思い起こして回心するなら、誰でも都の中へ入ることができるのである。

     信仰をもって生きるということは、私たちがなにか立派に生きることでも、人からほめられるような人間になることでもない。見えないところにおられる神に出会い、神の前に立ち、神に向かって生きることである。私たちは人間の心を探り、思いを試みられる神に視線を向けて生きて行きたいと思います。祈ります。